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2017|01|07|08|

2017-08-05 作文能力の目標の一つは「自省力」だろう

「マンガ作文」という手法が作文教育の「導入」として位置づけられたことに、母語習得の難易度についての混乱した考えが現れている。とは言え、「母語習得の難易度」ということに関して、特に気の利いた見解を誰かがまとめて公表している、ということも無さそうだ。また難易度は単一の尺度ではもちろん測れない。つまり、言いたいことは、現時点ではこの「こどもてれび」に勝る見解は無いらしい、ということだ。だって「他人から聞いた記憶は無い」が、しかし重要だと思う事柄を筆者が書いているのだから、当然そういうことになる。

難易度ということに関しての筆者の思いつきを述べるとこうなる。「自分で言ったことを自分で実行できている」と見なしうる「書き手」を一種の到達すべきゴールと見なして、そこを目指して途中の困難を克服していくことを、母語での作文上達の過程であると捉えるのである。この難易度設定が良いと思う理由はこうだ。作文だの小論文だの論文だのエッセイだのといったものの「書き方」を「指南」する書を見ていると、だいたいにおいて「自分の主張したことを自分自身が達成できていない」ことがとても目立つ。たとえば「主張には理由を書け」という主張の理由を書かない本や、「論文はパラグラフライティングで書け」という主張をパラグラフライティングで書かない本というものがある。だとすれば、こういうタイプの本はいわば「難易度の高い」課題に成功していない、いわば「レベルの低い」本だと見なすことができる。それに比べて「自分の主張した内容に忠実に書けている」指南本というものは、それに比べて「難易度の高い」課題に成功している、と見なすことができるはずだ。

とは言え、もちろんこういうことは言える。「次に絶対ホームランを打つ」と予告して達成できないのと、「次に絶対アウトにならない」と予告して実際にアウトにならないのと、どっちが「偉い」のか、という問題である。「自分の言ったことを実行できている」という能力の獲得を目標にすると、今度は「自分の実行できることしか主張しない」ことを自慢する文章指南本や文章教育が現われる。その場合、難しい課題を提案して失敗するのと、易しい課題を提案して成功するのと、どっちが「偉い」のか、というふうにして、ここにもまた難易度の別の尺度が必要であることが示唆されている。

というわけで、文章作成の能力に関するごく一般的な「難易度」というものを構想すること自体がもちろん必要なのだが、ここ二十年くらいの教育の風景によって、むしろメタレベルから先に制限を加えておかないとならない事態になってしまったわけだ。つまり高邁かもしれないがちっとも自分自身が達成できていない教育目標を、自分にではなく生徒に押し付ける教育者・教育書が「素晴らしい」ものとして持ち上げられる、という時代を一回作ってしまったわけであり、それは否定してかかる必要があるわけだ。「この二十年は無駄だった」。なので、べたな意味での難易度を構想するよりも先に、「何であれ自分の主張したことが実行できている文章」を書くことが「難易度が高い」と言わざるを得ない状況になっているわけだ。

そうではない一般的な難易度という点に関して筆者には今、特に名案は無い。ただ、「読むこと」の難易度と「書くこと」の難易度とは混同しないべきだろう。多くの人が知っているように、「読むのがどうしようもなく難しい悪文」はむしろ(限定はつくが)書くのは易しいわけだ。現代文は放っておくと、その種の悪文、つまり「書く側にはむしろ易しい」文章を読めることを能力の高い状態だと捉え、それを獲得目標にしかねない。しかし、それは「書くこと」の能力向上のためにはあまりプラスではないだろう。「現代文の入試で読まされるおそれのある悪文」のようなものを書かないこと、つまり、読み手に「高い読解力」を要求しない文章を書けることが、「書く能力が高い」ということであり、つまりそういう文章ほど「書く側にとっては難易度が高い」ということは言えるはずだ。だがここでも、先のホームランとアウトの話は再燃する。高度な内容を易しく書こうとして失敗するのと、安直な内容を易しく書こうとして成功するのと、どっちが「偉い」のか問題である。ここでもまた「高度な内容」とか「安直な内容」といった尺度がもう一つ必要になることは不可避である。


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