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こどもてれび

子供向けのテレビ番組にあれこれ解説をつけています。『烈車戦隊トッキュウジャー』を題材にして、現在は書き進めております。

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2017|01|07|08|

2017-01-22 見逃されてきた日本語講義の聴解の困難

かつて書いた記事の転載です。

浅羽通明氏や野村一夫氏が紹介しているように、大学受験での偏差値が高かった者が、大学での文系内容の講義を理解できないという事態はまったくありふれた事態である。そして、彼らのようなタイプの論者は「受験勉強→暗記で済むもの、大学の講義→高度な理解力が必要になるもの」という二項対立でこの事態を処理して、それ以上の追求をしていない。しかしこれは事態をあまりに単純化しすぎている。そこでここではたった一つの点に絞って、問題を提起してみたい。それは「試験は文字の処理能力を要求する/講義は音声の処理能力を要求する」という相違である。つまり、偏差値が高かった者は文字の処理能力が高かったということであり、その彼らが講義内容をよく理解できなかったのは音声の処理能力が低かったということである、と、こういった二項対立で事柄を見てみようというわけだ。

音声言語と文字言語とにはいくつかの重要な相違がある。最大の違いはもちろん、音声はその場では次から次へと消えていくのみであるのに対して、文字はわからなければその場ですぐに、前に遡って読み返すことができることである。その次に重要な相違は、文字には活字があるが音声には活字に匹敵するもの(「活声」)があるとはとても言えない、ということである。つまり、文字言語には活字があるため、相手の字をわざわざ判読する必要にはふつう迫られないが、他方で音声言語の場合、アナウンサーでも声優でもない相手の必ずしも明晰でない音声を、正確に識別しながら聴き取ることはそれ自体がかなり高度な技芸である。あるいは、たとえば音声読み上げソフトの音声は、文字でいう活字に匹敵するような互換性や性能をもつわけではない。そしてまた仮にアナウンサーのように適切な発音や抑揚ができる音声ソフトが今後開発されたとしても、次の点で、文字と音声とは比較にならないほど性能が異なる。すなわち、音声言語では「漢字」「平仮名と片仮名の違い」「句点と読点の違い」「括弧」「段落」などを表すことができない。なので、文字言語でこれらに依存していた表現は、音声だと、たいていの場合聞き手の能力や努力に一方的に依存して、かろうじて伝達されるものとなる。

ここでの音声言語として考慮の対象にしているのは、講義や演説やスピーチのように話者の交代が原則として起こらない言語活動(での音声)である。すなわち、複数名での会話や座談会のような、話者の交代が頻繁に起こりうる言語活動を考慮においたわけではない。ということはつまり、いわゆる会話に見られるような「話者の交代への対策」として採られるような発話上の方策は、考慮に入れる必要がない。たとえば話者交代に備えるための「文法上の崩れ」などは考慮に入れる必要がない。だから、文言としては文字の論文や説明文のようであるのだが、それをたまたま今回は音声で話しているに過ぎない、という文言になっていると解してよいのだ。

ここまでの事柄を考慮に入れると、次の点で、文字での講義録よりも音声での講義のほうが難解になりうる。

まず日本語は述語が文末にほぼ必ず来る言語languageである(諸言語のうちの一つの言語である)。そして文字だと句点があるが、音声にはそれが無い。ということは、一文が完結したかどうかは、文字だとその時点でわかるが、音声の場合「次の文に突入してしばらくしてから」初めて判ることになる。ということは、そこから導出される重大事態としては、こうだ。「文が肯定文だったか否定文だったか」も文字だとしばしば文末で初めて明らかになるが、音声だと「次の文に突入してしばらくしてから」初めて判ることになる、これである。だから音声での講義等を聴く場合は、「次の文に突入した」時点で、聞き手は「一個前の文と今話されつつある文と」二つの情報を同時並行的に処理しなくてはならない。まして、えんえん続いたあげく前の文が否定文だった場合は特になおさらである。

だからたとえば、文の区切りをなるべく早く聞き手に伝えるためには、文頭でできるだけ接続詞を用いるように、話者が心がけるしかない。これなら「次の文の文頭」で「あ、前の文は実は終わっていた」ということがはっきり伝わりうるし、次の文の情報の予告にもなっていて聞く構えもできるから、音声情報の二重処理が少しは楽になる。文字での接続詞は後続する内容の予示の機能だけだが、音声の場合、加えて「そこが文頭であることの告知」機能が重要だ、というわけだ。ただ、接続詞を文頭に使ったほうが親切なのは、何も音声に限ったことではなく、程度の差はあるものの文字でも同じことだ。そして文字でそれを意識的に行なっている者が特に多いとは決して言えないだろう。ならば音声でもおそらく多くないだろうと予測できはする。

文の区切りについて言えることは、段落についてはなおさら言える。つまり、文字の場合と異なり、音声では「改行」も「段落」も示すことはできない。すなわち、それをするためには「今から別の話題に入ります。」とそれ自体一文相当の音声によって、話題の転換を予示することしか手段が無い。

これらの点からだけでも次のことたちが言える。たとえば「わからないところがあったらその場で質問して結構です」と述べる演者が居るものだ。しかしこれを文字通り実行することはなかなか困難だ。少なくとも「わからないと感じた瞬間」に質問を実行することにはリスクがある。というのも、その後に補足説明が後続するのかもしれないからだ。そして、質問したら「そこはこれから説明しようと思っていたところです」などと言われることになるのかもしれないからだ。だがしかし少なくとも、音声での講義には「段落」というものが聞き手にとっては無いので、配布物や画面の文字での補足があるならともかくそれが無い場合、「今が段落の途中なのか段落の終了地点なのか」すら聞き手にわからないことも多い。わからない点についての質問はせめて「段落の終了時点」で行なったほうが安全であると考える者が前記の理由により多いだろうし、そうであれば、このような「その場で質問して結構です」にはあまり意義がないのだ。例外的に、せいぜいその時の音声が聞き取れなかったという場合くらいにしか役立たない。なお、これに関連してこういう場合もあった。ちょうど筆者が「質問しよう」と感じた頃に、講演者が「あ、今している話題はまだ続きます」とたまたま言った。なので、筆者は質問を先延ばしにした。すると、この講演者は何の予告もなくいつの間にか別の話題に突入させていたのだ。つまり演者は「話題の継続」の提示は行なったが「話題の転換」の提示は行なわない、というとてもアドホックで嫌なことを行なったわけである。

あるいは「この講義はノートを取ったりしないで、聴くことに集中してください」という演者が居るものだ。これは能力に因るのかもしれない。しかし少なくとも筆者のようなタイプにはまったく逆効果である。目安としてはこうだ。会話をしている最中に突然話題が転換してしまうこと、というのがままある。そういったときに「そうそうそれでさっきの話題に戻ると…」と言って容易に戻ることのできる人もいれば、そうでない人もいる。筆者はたいがいの場面で後者である。この「転換してしまった話題を前の話題に戻すこと」ができないタイプの人であれば、「聴くことに集中」するためにこそむしろメモやノートを取ることが必要になるものだ。おそらく「ノートを取ったりしないで」と言うような人は、話題が転換したときさっと戻すことのできるタイプなのだろう。ただ世の中にはそうではないタイプの人もいるのである。あるいは、過去の体験を振り返って「誰と楽しく会話した」ということはよく覚えているが「ではどんな会話だったのか」と思い出そうとするとほとんど思い出せない、という人であれば、ノートは無論取ったほうが良い。その一方で、世の中にはその時の会話をありありと想起し再現できるタイプの人もいる。たとえば土屋賢二氏の臨場感あふれるエッセイなどがそんな感じである。おそらく「ノートを取らないほうが聴くことに集中できる」という講演者もそのタイプなのだろう。ただ世の中にはそうでない人もいるのである。

あるいはまたこういうこともある。浅羽通明氏は『大学で何を学ぶか』で大要以下のようなエピソードを紹介していた。こうである。大学の講義で「ふつうはAだと思われているが、実はBなのである」という内容が話された。ところが勤勉なだけで低脳である大学生はその講義を「Aである」とだけ聞き取っていた、馬鹿である、といういものだ。いっけん浅羽氏の述べるような「馬鹿」大学生も居そうに感じられるが、その一方で次のようなことも言える。「Aではなく実はBである」ということが聞き取れるためには、「A」や「B」がきちんとした「始めと終わりをもつまとまり」として聞き取れる必要がある。いつのまにかある話題が開始したり、いつのまにか別の話題に転換していたり、といった、区切りのあやふやな話し方・講義であるなら、そのような論理構造を把握する以前に要素の把握すら困難である。さて、講義者はきちんと話題の区切れ目を明示し接続詞等もきちんと用いていたにもかかわらず、聞き手の大学生の方だけが低脳だったためにそう把握できなかった、ということは浅羽氏の紹介だけでは確信できないはずである。そのことはぜひ言っておきたい。

さてさて、ここまで述べてきた基本問題に加えて、現代日本語というのは、明治の前半頃に先人の努力によって作られた、同音異義語をもつ山のような漢字熟語たちがごく自然に使われている言語なのである。そして、言うまでもないが、講義・講演を行なう者たちが黒板や配布物や画面の文字などでそれら同音異義語を適切に補足解説していることは、きわめてまれなのである。読者のかたもきっとそんな授業や講演などめったに体験したことが無いに違いない。

注意してほしい。述語が文末に来るであるとか同音異義語が大量に存在するであるとか、そういう問題は欧米語にはまったく無関係の問題である。つまり日本語に固有の問題といって良いほどのものなのだ。だから言語学で「音声言語の処理のほうが文字言語の処理より難しい」などという問題意識が取り扱われることは、まずない。あるいは、欧米で社会階層の分断の要因となっているのは、識字能力のほうが圧倒的であり、音声言語が階層を分けるとすれば、せいぜいフランス語のリエゾンの聞き取りか、それも含めて「上流階級のようなきれいな発音であるか/が聴き取れるか/否か」といったタイプの問題しかない。日本の場合であっても筆記試験が社会階層を分ける度合いが高いため、「日本語の聞き取り問題」が社会階層を分断しているという徴候はあまり感じられないだろう。つまり社会学的にも日本語聞き取り問題は扱われにくいわけだ。いずれにせよ、欧米のアカデミシャンが「日本語に特有の聞き取りの困難」を問題として提示してくれることなど期待できないし、それは近似的に云えば、そもそも学問全般が「日本語の聞き取り問題」を扱ってくれることすら期待できないということなのだ。


2017-01-23 文自体の理解についてまず分類

かつて書いた記事の転載です。

文の理解について考えるときに、文自体だけを単独で考える流儀と、「文+状況」の全体を考える流儀とがある。今回は前者をやっておく。

文の理解可能性に関して「同定可能性」と、同定を前提にした「理解可能性」とを両方考慮して分類してみる。

この場合の同定とは、音声言語の場合はまずとにかく聞き取れること、そしてたとえば単語の切れ目や同音異義語が聞き取れることのレベルまでを指す。たとえば「にわにわにわにわとりがいる」という音声言語に対して「庭には二羽ニワトリがいる。」というふうに即時に文字化することは同定と呼ぶことにする。あるいは「にわにわたなべがいる」という音声言語に対して「庭に渡辺がいる。」なのか「庭には田辺がいる。」なのかを状況に応じて正確に即時に文字化できることは同定と呼ぶことにする。ただしここでは文の外側にある状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。なお、音声言語には句読点がいっさい無いので、句読点も含めて文字化できることも同定と本来見なしたいところである。しかしこの操作は文法構造の理解と分かちがたくつながっているので、同定を前提にしたより高度な理解の側に、この考察では入れておくことにする。

文字言語(活字)の場合は、発音を知らない漢字が無いことは同定できていることの一部であることにしておく。また、漢字や片仮名で表記可能な要素がひらがなで書かれている場合、それを可能な表記に置き換えることができる状態であることも同定と見なす。たとえば、「人気がない。」という文を「にんきがない」なのかそれとも「ひとけがない」なのかを、状況に応じて正確に発音できることは同定と見なす。ただしここでは文の外側にある状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。あるいは「障がい者」と書かれた文字を「しょうがいしゃ」と発音できること、および「障碍者」等の表記が可能であるとわかること、の二つは同定と見なす。

同定できたうえで、さらに文自体が理解できた、という状況をこの段階で考えることができる。ただ、理解というのは0か1かというものではなく、浅い理解もあれば深い理解もあるというほうが実情にかなっているだろう。よってここでは「特に理解できないことは無い」程度の状態を「理解した」と呼ぶことにしておく。文を取り囲む状況についてはどのみち考慮していないのだから、文自体の理解といってもある程度限度のあるものにならざるをえない。それでも考えておくに値する事柄はいくつかある。以下それを示す。

特に重要なのは、「文自体の正しさ」を理解できる、という理解である。外部の事実に照らした文の真偽ではなく、文自体(の発音や表記も含めたもの)の正誤である。ただし、文が誤っている場合には注意が必要だ。誤った文が理解できるというのは「どこをどう直せば正しくなるか」が理解できる場合に、ほぼ限られるからだ。というのも、どこをどう直せばいいのかが即時にわからないような文は、そもそも同定すら困難だからだ。少なくとも実効的な言語たりえない。そのような、同定できないものに対して理解可能性を論じることは意義が無い。

「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文というのは、したがってやや些細な揚げ足取りじみた態度によって見いだされやすい。「詳しいことまでいちいちあげつらう。」→「細かいことまでいちいちあげつらう。」といった誤文修正を見るとそれがわかると思う。つまり、このくらいに「些細な」誤りでないと「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文になりにくいのだ。たとえば「からすがにこきにとまっているよ」を「二個→二羽」というふうに修正するのは、漢字を交えて書かれた文字言語だと容易だ。しかし音声言語だと困難だと思う。なぜなら「にこ」という音声が音の数が少なく前後の語に紛れやすいので、これを「二個」と聞き取れるためにはしかるべき先行文が無いと困難であるからだ。そして、「二羽」を「二個」と誤るというのは、その事情を覆せるほどに「よくある誤り」ではない。誤りとしては少し大胆すぎるものなのだ。誤っており誤りが理解できる文というのは、だから文字言語ならいろいろ成立するだろうが、音声言語だとかなり限られる。音声言語の場合は、誤っている文の多くは同定できず、したがって即時の理解もできない文であるとみて良い。文字には活字があるが、音声にはそれに匹敵する存在が(せいぜいアナウンサーの発声・発音くらいしか)無いのだからそうなる。

「文自体のわかりやすさ」を理解できる、という理解もある。たとえば文意は理解できないが、その文が理解困難な文であるということは理解できる、という事態が想定可能である。ただ概して言えば、「文自体がわかりにくいということがわかる」という場合には、文意が理解できないだけでなく、その文が正誤面で正しいかどうかも理解できない、ということになることが多いと思う。なのでこの場合は、その文が日本語であることは理解でき、理解しにくい文であることも理解できるが、それ以外は大してわからない、ということになる。これはわりとありふれた日常の風景かも知れない。その一方で、文意も理解でき、その文がわかりやすい文だということも理解できる、ということはあまりない。というか、「理解という出来事」を経由しないことにおそらくなる。理解できる文に対して「わかりやすい文であることも理解できる」というような認識をするのは、文そのものに対して専門的態度をとっていないとなかなかできないからである。要するに私たちの多くは、「文のわかりにくさ」には鋭敏であっても「文のわかりやすさ」にはあまり鋭敏でないものなのだ。

その一部として「語句や言い回しの頻度や新旧がわかる」という理解もある。たとえば「この語句は使用頻度の低い語句だ」とか「この言い回しは古い言い方だ」「この言い回しは若者言葉だ」ということが理解できることが、ままある。これは要するに、とりわけ際立ったものに対してだけ注意が働く、といったタイプの事態ではないかと思う。語句や言い回しの使用頻度や新旧などを通常はあまり意識しないが、際立った場合には意識することがある、というタイプの事柄だろう。

今のところここまで。


2017-01-24 子供の語彙習得を俯瞰する

かつて書いた記事の転載です。

この文章は、文自体の理解についてまず分類の続編にあたるもので、「文+状況」の全体を考える文の理解について扱っております。

子供の語彙習得について概観を得ておくために、独自見解を中心にまとめておく。さて、語彙の習得は1か0かみたいな話ではなく、終わりのない過程であると言いうるところがある。理由の一つは、日本語自体が日々少しずつ変化しているということである。別の重要な理由としては、語彙を習得するときに「その言い方は誤り」「語のその理解は誤り」という見本があってそれを回避する、という仕方で学習することは少ないというものだ。つまり、誤りに関して「免疫」があまりつかないので、単に「こういう表現もできる」という習得段階にとどまることが多いわけだ。また別の理由(というか事情)として、「他人がその語彙を使っているのを理解できる」段階と「自分がその語彙を使えるようになる」段階との間にも違いがあるし、この二つは一挙には達成されず、前の段階を経て、その後いつの間に後の段階も達成しているという形になることが多い、だからそういうわけで語彙の習得自体はかなり長期にわたった複雑な過程であるだろう…というものがある。このように語彙の習得は考慮すべき事情がいろいろあり、一筋縄では行かない。なのでここでは、最初のまず「他人がその語彙を使っているのを理解できる」という獲得段階にとりわけ関心を払って考えてみる。換言すれば「こういう言い方もできる」ということを言い方自体とともに獲得する段階である。

例を挙げる。「ボールを掴む」「チャンスを掴む」「コツを掴む」という語句の各々において、「掴む」の内容は大きく異なる。とりわけ、これらの語句を獲得する段階の子供の側から見ると、大きく異なると云える。

まず「ボールを掴む」という語句を理解するためには、直示的教示を行なえば良い。つまり、ボールの実物を子供に提示し、それを養育者が実際に手でつかんでみせるということをすれば良い。あるいは、その映像やアニメや絵でも構わない。ここで直示的教示に伴う哲学的懐疑を提案することは、もちろん可能ではある。だが他に方法は無いし、たいていの場合なぜだかこの語彙獲得はうまくいくものなのだ。なお、ここでは「手で掴む」ことに無理のない大きさのボールのみを対象に想定することにする。で、このようなタイプの動作を表す動詞を筆者は「特定動作動詞」と呼んでいる。

なお補足しておくと、「ボールを掴む」という動作は目的をもった活動の過程であり、その続きがあることを示唆することが重要かも知れない。たとえば「ボールを投げる」ための過程として行なわれることを示唆する、ということである。

もう一つ補足しておく。人間のようなものの「動作」を表す「特定動作動詞」と同様の習得を子供がするものとして、物質・物体のようなものの「物理的運動・反応・状態」を表す「特定状態動詞」も想定できる。「物質としての人間」の状態もこちらに含めて良い。習得のしかたのパターンも「特定動作動詞」に準ずる。

次に「チャンスを掴む」という語句の獲得である。「チャンス」というのが物理的状態ではなく、言語的(あるいは規範的)な状態である以上、「チャンスを掴む」というのも物理的な動作の物理的なあり方によって規定されているわけではない。が、かと言って、物理的な身体動作として現出しないというわけでもない。「チャンスを掴む」という語句に対応する物理的身体動作や付随する物質の運動は多くの場合、個々の場面に応じて事後的になら指摘可能である。このようなタイプの動作を呼ぶ語彙を、筆者は「不特定動作動詞」と名づけ、語彙獲得に関わる話題の際に注意を促している。これはつまり、何らかの動作を伴うことはほぼ間違いないが、かと言って動作そのものには別の名前や呼び方があり、その動作の固有性によって呼ばれるわけではない、という、そういう動詞的表現を呼ぶわけだ。かと言って、その動作は動詞内容の単なる手段というわけでもない。つまり、動作が指す状態はあくまで動詞の意味する行為・活動の過程の一部であって、目的に対する手段という位置づけとは異なる。

さて、このような「不特定動作動詞」のような語彙は、直示的教示のような仕方で子供が学習することは決して多くはないだろう。というのも、たとえば「チャンス」が言語的・規範的な対象である以上、「チャンスを掴む」というのも、「これがチャンスを掴むという動作だよ」というふうに教えられるのではなく、むしろ「チャンスを掴もう!」という勧誘文や命令文で最初に学ぶことが多いのだ。要するに学習の場面は、物理や知覚の水準ではなく、文意や規範の水準で行なわれ、それは勧誘・依頼・命令だったりすることも多いわけだ。で、最初に見本を示されて学習する語というのではなく、最初からその語を含む文がブラックボックスとして提示され、「まずは対応せよ」を求められることが少なくないわけだ。あるいはまた、不特定動作動詞は、巧妙なデフォルメをほどこしたアニメやマンガやイラストあるいは文学作品によって学習されることもあるだろう。規範的・言語的な概念なので、記号化した物語のようなものからの方が、「現実の社会的行為」からよりも、的確に習得できる可能性があるのである。

なお、念のため付記しておくと、「チャンスを掴もう」と勧められた場合や「チャンスを掴むぞ」と宣言した場合に、「チャンスを掴む」ための手段としての行為のほうこそを行なうのはむろん適切である。というのも、そもそも実際にチャンスを掴むまでは、何がチャンスを掴む行為であり、何がそのための手段であったかは不確定であり、その区別は事後的なものだからである。

そして次に「コツを掴む」という語句の獲得である。「コツを掴む」という語句は「コツを掴んだ、と当人が信じている」と「第三者が判断してコツを掴んだことになっている」との言わば合成のような語句である。すなわち「当人が信じている」ことと「第三者が判断してそのようになっている」こととが、ともに一定程度満たされていることが必要であるだろう語句である。第三者視点の必要性に関しては先の「不特定動作動詞」と共通なので、この動詞的表現の固有の問題は前者の「当人が信じている」という条件のほうにある。こちらの当人条件が求められるタイプの動詞的表現を「心的動詞」とでも呼んでおく。「心的動詞」の内容は身体動作ではない。また「苦しむ」のように「第三者判断」を要さない心的動詞もある。ただ、とは言え、「信じている」もまた二義的である。一つは「“コツを掴んだ!”という心的印象が生起したことを知っている」という点を満たしている場合がある。もう一つは「“コツを掴んだ”という心的印象の記憶は特に無いが、“コツを掴んだ”状態に自身があるということを当人が信じている」という場合である。いずれにせよ、これらの条件を満たしているかは第三者からは推測はできても観察はできない。身体動作を指すわけではないからだ。したがって他人がこれらを満たしていることを子供が直示によって学習することにも大いに限界がある。と言うか、むしろ直示によっては学習できないし、観察もできないし推測をするしかない、ということをも含めて学習するのこそが正しい学習だと言いうるほどである。そこで他の学習する機会は二パターンあり、一つは自分が当人条件を満たしているときに、養育者が適切な示唆を与えることである。もう一つは、文学作品や体験談あるいは巧妙なマンガ・アニメから「他人の心の中・頭の中の描写」を与えられ、それを通じて学習することである。

これにあと「発文動詞」という筆者の造語した類型を加えておけば、だいたいの動詞的表現はこれまでのどれかに分類できる。「発文動詞」とは言語を(単なる音ではなく)言語として発する、という事態を指すことのできる動詞を指し、その多くは音声言語・文字言語を問わず使うことが可能なため、大まかには「不特定動作動詞」の下位類型としておくのが良いだろう。音声を発するのと文字を書いたり打ったりするのとでは動作がまったく異なるが、行為としては同じようなことをやっている、と言えるからだ。さて、ここでは「発文動詞」は、「発文専用動詞」「発文可能動詞」とを区別せずに扱っている。これらもまた筆者の独自概念だが、前者は言語を発するときに限って適用される動詞であり、後者は言語を発するときに適用してもよい動詞である。子供が語彙を習得する段階ではこの区別は全く不要だが、その後場合によっては必要になることも無いではない。たとえば「顧客の要望にこたえる」は「答える」なのか「応える」なのか表記を区別したほうが良いと考えるときに、この区別がレリバントになっていると言える。「答える」なら発文専用動詞であるが、「応える」ならば発文可能動詞であり、またむしろ不特定動作動詞であるからだ。あるいは「怒る」や「喜ぶ」は、子供が習得するときにはまずは発文動詞として習得するが、その後これらは単なる発文可能動詞だったり、あるいは心的動詞だったりすることが子供の社会化の発達につれてわかってくる。つまり、人は怒ったり喜んだりするとき言語を発するとはまったく限らない、ということを子供は学ぶわけだ。そして、しかし最初は言語を発する場合で学ぶことになることが多い、というわけだ。

「発文動詞」を子供がどのようにして習得するのか、などもちろん推察しかできない。ただ概して言えば、「発文可能動詞」は訓読みをもつものがいくぶん多いのに対して、「発文専用動詞」は「漢字熟語名詞+する」といったものが多い。そのため、子供は「発文可能動詞」を先に獲得し、かなり長じてからようやく「発文専用動詞」を、対応する漢字熟語名詞の獲得後に獲得することになるだろう。―とそのように推察できる。そもそもコミュニケーションを記述描写する語である発文動詞を、自身がコミュニケーションが十全にできないうちに「習得」などできるはずもなく、あるいはまた「初期の獲得」にしてもその「必要性」「緊急性」は比較的低い。ようするにコミュニケーションできるようになることのほうが子供の発達課題であり、それを記述描写できるようになることはそれより以降の課題だと言えるのである。ただしそれは子供の周囲の環境の養育者がきちんと「手加減」できる者である場合に限られる、とは言える。たとえば国語科や作文教室での「マンガ作文」を教える教師がその「きちんとした手加減」ができる定見があるとは全く限らない、とは言える。

そして、動作の不在を示す「無動作動詞」(造語)を以上に加えておくと、筆者の分類の意図がより伝わると思う。以下に大まかな関係図と例を挙げる。ただし現実には、一つの同じ動詞が複数の分類にまたがると言いうる点もあるし、動詞の用法が複数化していることもある。以下はあくまで概要である。要は、子供の語彙獲得が、まず「身体動作と物理状態」の観察から開始するのが容易なはずであり、ではその後にどのような語彙獲得が課題になるのかを示す、という観点からの分類なのである。あるいは、五味太郎氏の絵本『うごきのことば 言葉図鑑( 1)』(amazon)で扱われているのが、主に特定動作動詞と喜怒哀楽(→顔の表情という身体動作に現われている)に関する動詞が中心であり、その他がいくぶんこじつけであるのに対し、その先にある発達課題を提示した一案とも、この文は位置づけられる。

なお、「行く」と「帰る」の違い、「行く」と「来る」の違い、「もらう」と「あげる」の違いなどは、今回考慮に積極的に入れていない。ただしこの区分が自己と他者の区別という規範的なものである以上、これらの動詞は不特定動作動詞に入れるのが適切であるように思う。

  • 特定動作動詞(例:ボールを掴む、歩く、泳ぐ、座る、食べる、見つめる)
    • 特定状態動詞(例:燃える、落ちる、回る、伸びる、太る)
  • 不特定動作動詞(例・チャンスを掴む、調べる、練習する、処分する、まねする、運ぶ、殺す)
    • 無動作動詞(例:怠ける、無視する、沈黙する)
    • 発文可能動詞(例:挨拶する、拒否する、阻止する、対応する、なお、「怒る」「喜ぶ」「悲しむ」「笑う」「驚く」も当初は発文可能動詞として習得され、のちに心的動詞の用法とに分化する、つまり「行為として怒る」と「精神的に怒る」との二用法をもつ二義語となる)
    • 発文専用動詞(例:論じる、返事する、紹介する、ほめる、言及する)
  • 心的動詞(例:コツを掴む、賛成する、好む、想像する、考える、味わう、読む(、見える))

2017-01-25 テレビ作文の前に考慮が必要な事柄

四コママンガ等を読んで、「何が描いてあったか」を作文させる課題であるマンガ作文という教育技法があり、それに類比的な形で「テレビ作文」というものを想定することができる。とは言え、その場合、マンガ作文よりもはるかに多くの事柄をあらかじめ考慮しておく必要がある。

文字には「活字」というものが存在するが、「音声」には「活声」「活音」というものは今のところ存在しない、と言って良いだろう。ただ、以下は仮に「活声」というものが存在するとしても成立するような議論をしておく。たとえば、駅やATMのアナウンスやアナウンサーの発声を「活字」に匹敵する「活声」として見なしたとしても、なお、成立するような議論をしておく。

子供の言語習得がいかにしてなされるのか、その際、音声言語と文字言語との関係はどうなっているのか、に関して、「専門家」の多くは真剣に考えてなど全然いないということがまず指摘できる。その結果としての現在の学校制度であり、教育制度である。雑駁に言えばこうだ。「専門家」は文字言語の運用は難しいが、他方で音声言語の運用は易しい、とこう捉えている。なぜ「専門家」がそう捉えているのかと言えば、欧米語に関してはそれが当てはまるからだ。しかし日本語は違う。だから「専門家」の想定は誤りだし、その結果としての学校制度も誤謬に基づいている。

このことは既発表の記事で筆者は指摘しておいた。たとえば、同音異義語の存在がある。このため、音声で聞き取る能力というものは、「文字で表記したときどうなっているか」の知識を前提するものとなっている。だから、日本語の習得は「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につける」という単純な順番をたどらない。「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につけて、そのことによって次に、その文字言語を音声言語にただ置き換えたものの聞き取りを何とか身につける」という順番になっている。しかもその三番目の段階は「何とか」やりくりしているに過ぎず、絶対のゴールに辿りつくことは通常ありえない。何歳になろうが「相手の使用する同音異義語」が必ず正確に聞き取れます、などという人はいない。ありえない。

もちろん、「同音異義語」に加えて、「段落」「句読点」「諸括弧」「ハイフン」などといった文字表記に依存した要素のことを考慮に入れれば、仮に「活字」ならぬ「活声」が発明されても、その聞き取りが困難であることは明らかである。少々ふざけて句読点をわざと音声で逐一表現する人というのが昔いたと思うが、たとえば「もおにんぐむすめまる」「ありがとおございますまる」などと表現する人がいたと思うが、そういう手続きが「活声」にも必要になる。あるいはそれに匹敵するもう少し「まじめな」技法が必要になる。句読点や段落を表示する独特の音声を発明し普及させるということが、である。したがって、現段階では、それらのありとあらゆる要素の聞き取りは著しく困難である。「文字言語に比べて音声言語のほうがずっと情報量が豊かである」というクリシェを述べる人がたまにいるが、単なる馬鹿か欧米かぶれのどちらかである。

また、述語の位置が欧米語だと文のはじめのほうに位置するのに対して、日本語は文末に位置することから、重大な帰結が生じることも以前指摘した。それは「日本語は音声の場合、文が終わったことに気づくのは、次の文に突入してからになる」「つまり、日本語は音声の場合、前の文と今の文とを同時並行的に情報処理して聞かないと理解できないことがある」という話題である。そして、ここに「日本語は最後まで聞かないと、ということは次の文に突入しないと、その文が肯定文か否定文かどうかだったかすらわからない」という事情も加わる。もっともこれは、独演的に行われる講義やスピーチの場合であり、話者が次々交代する可能性の高い自由な会話場面ではまた、事情が違うかもしれない。しかしいずれにせよ、「小学校の授業」では、この事情が関与する可能性が高い、ということは言えるはずだろう。

いずれにせよ、日本の学校制度は音声言語の聞き取りは易しいが、文字言語の読み取りは難しい、という単純な言語観で設計されている。文字言語を身につけないと聞き取ることのできない音声言語の存在のことは、特に想定されていないことが多い。なので、学校での授業というものは、わりと安易に音声に依存して行なわれる。つまり、音声での聞き取り能力がすでに身に付いた子供を前提に行なわれる。ちなみに同じ言語観を、メディアの送り手もまた共有している疑いが強い。大人向けのバラエティには字幕が付く場合があるのに対し、子供向け番組のほとんどには字幕がいっさい付かない。音声を聞き取るほうが文字を読み取るよりも容易である、という考えに基づいているからだとしか思えない。しかしそれは間違っている。

さて以上は、「人の音声言語を一方的に聞き取り理解だけする」人間を想定した話になっていたし、その水準(授業など)の議論も必要なのだが、実際には音声言語の多くは「一方的に聞き取って理解だけする」ものではなく、「自分もまたそれに応じて呼応し返答し発信しなければならないもの」でもある。その際にきわめて多くの「理解し習得もしなければならない規範的事柄」が存在することには、言を要すまい。

ここまでは、マンガ作文であってもテレビ作文であっても、いずれにせよ理解しておかなければならない事柄である。四コママンガの構成要素の根幹に「会話」というものがあり、その「会話」を描写したり説明したりすることができることが、その作文の「能力」である以上、「会話」という社会的行為を高度に習得した子供でなければこの作文は可能ではない、それは明らかであるように思う。そしてマンガ作文を教えている国語教師や作文教師にそれに対応できる理論武装があるわけではないこともまた、筆者には明らかである。「マンガの会話というものは音声を描写したものだから、文字の本を読むより容易に理解できる」といった程度の幼稚な発想に依拠しているだけのものが、現在までのマンガ作文である。これ自体は、まあダメダメな事態であるが、今はそれに構っている暇はない。

それに加えてこうだ。マンガにせよテレビ等の映像にせよ、あるいは文字だけの小説でもそうだが、「フィクションの中の会話」というものが、「実際の」会話というものとはいくぶん異なるということが、まず考慮される必要がある。たとえばこうだ。「フィクションの中の会話」というものは、「登場人物」に伝えるためにだけ行なわれているわけではなく、読者や視聴者に伝えるためにも行なわれているし、そちらこそが主眼であるような「会話」もある、ということだ。なので、次のことが推察可能である。「実際の会話能力」が低くても、マンガやテレビの会話を理解できることがありうる、これである。つまり、それは「フィクションでの会話」の特徴を多くもち、実際には「読者や視聴者に伝える」ことに主眼があるような会話が一定程度存在する、ということである。マンガ作文の先に指摘した「難点」があまり顕在化しない理由の一つも、これであろう。「リアルの会話」を理解したり遂行する能力よりも、「フィクションの会話の特徴」を理解している子供のほうが、理解の程度が高いことがありうる、というわけだ。

もう一つ重要な点を指摘する。それは「フィクションの会話」では、先に述べたような音声言語の不自由さがまるでほとんど存在しないかのように進行するということだ。同音異義語の聞き取り問題も存在せず、まるで文字で筆談しているかのようにスムーズに進む。ときおり、「聞き取り問題」が発生することはあってもそれはストーリーの都合上生ずるものでありつまりネタである。だからそれは「リアルの会話」に常に潜伏しているような聞き取り問題とは無縁である。まとめれば、フィクションの会話というのは「字幕付き音声」で会話しているようなスムーズさを持つ、という点でリアルの会話とは異なる。ここからは先ほどとは反対の帰結が予想される。つまり「実際の会話能力」が低い者のなかには、テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも低い者がいることが起こり得、またその視聴者当人の側にもそのことが意識されやすくなる、これである。これは会話を文字で表現するマンガでは起こらないことであり、会話を音声で表現するテレビ・映像メディアならではの起こりうる点である。

さて、マンガよりもテレビのほうが一段と錯綜した構造のもとにある。つまり「マンガ作文」よりも「テレビ作文」のほうがより考慮を要するようになりやすい。たった今上で述べた「テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも視聴者のほうが低いことが起こり得る」というのもそれだ。その他の例として、二つの全く異なった次元の点を、以下指摘する。

一つめ。マンガでは音や声を音や声として表現できず視覚情報に変換されたうえで表現されるが、テレビだと音や声を聴覚情報のまま音や声として表現される。この違いから次の点が帰結する。すなわち、マンガでは「音」は必要以上には表現されないようになり「声」が中心になるが、他方でテレビは「音」の表現で充満しておりその使用に遠慮が全く無いという点である。そのことで、視聴者の側にはテレビから聞こえる音に関して、ある独特の識別を必要とするようになる。すなわち「この音は“登場人物”に聞こえ得るか否か」の識別である。

マンガと比較しよう。まず「声」だ。マンガでは「登場人物に聞こえている声」と「登場人物に聞こえていない声」とを、漫符として区別する技術を持っている。たとえば吹き出しでは、「声」を表現する吹き出しと「内面」を表現する吹き出しとの区別というものは、確立されている。同様に、「ナレーション」を表現するような吹き出しも確立されている。つまり、マンガのなかの「声」のうち、どの「声」だと登場人物に聞こえていることが可能であり、どの「声」だと聞こえることが不可能なのかは、その識別は読者にはかなり自明である。もちろん自明とはいっても、文化的学習を経なければならないものではある。が同時に、学習によってその理解は容易に達成可能なものであるのだ。

次に「音」だ。マンガでは「音」は主に手書きの文字によって表現される。このとき「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえるはずのない音に似た何か」とは、漫符としては区別されない。つまり、オノマトペのうち、擬音語(聞こえる音)と擬態語(“聞こえる音”ではない何か)とは漫符として区別されているわけではない。この区別はむしろ言語レベルの区別だと言ったほうが良い。「キキキキー!」とか「ガオー」「ワンワン」だと「擬音語」であり、「シーン」とか「ゾワゾワ」「ガーン」だと「擬態語」である、というのはもはや言語理解と同等の理解である。つまり「聞こえ得る音」と「聞こえ得ない非音」とは「言語的」「単語的」に区別されている。これはより高度な学習の成果ではあるが、ともあれ文化的学習であり不可能な事柄ではない。

ところがマンガと同じことがテレビでの「音」(「音楽的な声」も同じ)については当てはまらない。つまりテレビで視聴者が聞こえる音のうち、「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえ得ない音」との区別をつけることができるような文化的学習というものを想定することは無理である。現在の科学技術だとほとんどどんな音でも作ることが可能だし、編集で付加したり除去することも可能だからだ。したがって、テレビで視聴者に聞こえる音のうち、登場人物にどの音が聞こえ得て、どの音だと聞こえ得ないのかの識別は、本質的には不可能であると言ってよい。しかもこれはフィクションに限らない。バラエティやクイズや報道番組であっても、この区別が視聴者に不可能である点は変わらない。ただ多くの番組ではこの区別が単にあまり必要でない、というだけのことでしかない。その必要性の無さということを、人は発達段階のどこかで自然に学習していく。しかしそれはまっさらな幼児には無理だ。なので、幼児やある種の認知傾向のある人々は、テレビを見ていても「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえていない音」の区別があることに気づかず、視聴に理解困難があるかもしれないわけだ。

二つめ。テレビに関しては、マンガと比較してきわめて多くのものからの影響を蒙りやすい。つまり、作られた作品・流された映像や音声といったものが「単一の意志」のもとに統御されているとはとうてい言い難いということがある。マンガの場合でも、とりわけ長期の連載マンガの場合編集者が途中で変わったりするなどで、作風や設定が少しずつ変わってしまい一貫しないことはままある。しかしテレビの場合、それがもっと短い期間のなかですら一貫できないことがままあるのだ。とりわけ、そのことが現自民党政権のもとでかなり露骨に番組に反映されるようになった。特に2016年後半から目立つ。と言うか、番組が何か理解しがたいしかたで「路線変更」をした場合に、「背後の政治的圧力」を想定するのが当然のような時代になったわけだ。もちろん、それまでだってあった事態だろうが、より露骨になってきたわけだ。また、そこまで行かなくとも、番組制作側が「自分のやりたいこと」と引き換えに「交換条件」を呑まされている、という観もぬぐえなくなってきた、と、そう言える。言うなれば、長期連載マンガだと「5巻と10巻とでだいぶ設定が変わったね」というレベルの話なのだが、テレビだと「第5話と第10話とでだいぶ設定が変わったね」「あのときの伏線はどうなったのかね」「初期設定のままでもっと展開できるだろうにね」というレベルの話になりかねなくなったのだ。またそのためだと思うが、作り手も最初から緻密な設計図を描いて番組を作ることを断念して作っているかのような趣になってもきた。今これを書いている2017年7月という時期は、そのことがもうかなりはっきりしてきた時期であるのだ。そこから遡及して、過去の番組でもそういった面があっただろうと推測できるようになってもきたわけだ。

なので次のことが言える。すなわち「テレビ作文」を行なう場合、その番組を選ぶときには、必ず「第1話から最終回まで全話視聴して」からでないと、その良しあしが分からないものだ、ということを念頭に置くべきだ、これである。おそらくこの「介入に対する脆弱性」の根本要因の一つが、「視聴者は民放のテレビ番組は無料で視聴している」という点にあるだろう。「商品」なら購買者の意見というものが一定の強さをもちうるが、無料で視聴できるテレビ番組の場合、「視聴者の立場」はとことん弱いというわけだ。「商品」であるマンガとの違いがおそらくこういった形でテレビ番組にはあり、そのことがテレビ番組を「教材」として無邪気に採用することの障壁にもなりうるわけだ。(同様に、テレビ番組の内容に「社会学的問題」のようなものを「発見」することもまた困難である、やるからにはとことん調査し尽くした上でないと、ということも言えるわけだ)


2017-01-26 マンガ作文の前に考慮が必要な事柄

国語教師の典型的な学力観の一つに、「与えられた表現を、与えられていない形に変換して表現することが国語の学力だ」というものがある。結論から言えばこれがマンガ作文を推奨できない主な理由になる。というのも、「与えられた表現を与えられていない形で表現する」ために必要な知識や考え方を教師は生徒に教えていないし、そもそも教師自身が知らないからだ。

マンガ作文そのものは、ある意味では容易であると言える一面がある。すなわち基本は全部「心情」で書けばいいからだ。「出来事1の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情→出来事2の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情」というふうに心情の連鎖に出来事の発生をからめて書けば、終わりである。連鎖は順接の接続詞を使って表現すれば良い。登場人物の心情の多くはマンガの中に文字の形で書かれてはいないから、「与えられた表現を与えられていない形に変換して表現すること」に該当する。なので「良くできました」となる。だが、国語教師の期待に応えない・応えられない子供というのが必ず出てくる。それを「裁判での理想的な証言者」タイプの子供とでも呼べるかもしれない。

「裁判での理想的な証言」というのは、ようするに自分の「解釈」をできるだけ排し、可能な限り事実に基づいて証言するタイプの発話である。これがマンガ作文の「理想」ととことん対立する。マンガ作文で必要なのは、いかにして「自分の解釈」を述べ「事実そのもの」を書かないか、という態度のほうだからだ。その典型が「セリフ」の扱いである。マンガ作文でいちばん嫌われるのは「Aさんは“X”と言った」というふうに、「言った」を使ってとにかくセリフを忠実に再現する書き方である。裁判の証言ならこの態度のほうが好ましい。だがマンガ作文への態度としては「最悪」と受け止められる。

なので、マンガ作文を教える側には「Aさんは“X”と言った」を「Aさんは○○した」という形に変換して、かつできるだけ「マンガ内事実」に密着した形で表現するための、ノウハウを持つ必要がある。そのための知的リソースの一つは明らかに言語行為論系・日常言語学派系の見識だが、それだけでは必要だが不十分である。有用な補助線の一つは「AさんはBさんに聞こえるように、Cさんに向けて“X”と言った」というふうに、誰に向けて言ったのか、誰に聞こえるように言ったのか、ということを明確化するようにしてみる作業だ。特にある種の障碍のある生徒だと、おそらくこの次元での理解が困難であることが予想できる。一方、言語行為論系からの知見(飯野勝巳氏)としては「AさんがCさんに向けて“X”と言った」ことが、Cさんにどの程度のことを強いているか、という観点がある。最低限、返答や聞こえたという合図だけは返さないといけないのか、あるいはそれ以上に発言に応対した行動を採らないといけないのか、それともそれらの必要が特に強くはないのか、といった観点である。

問題解決のための会話や独演というものもある。会話の場合であれば、問題を共有しながら、各自が提案をして「問題解決」や「秩序回復」のために何を行なったのか、どう役立ったのか、という観点からまとめるとやりやすいだろう。そうすれば「Aさんは“X”と言った」→「Aさんは新たな論点を皆に提供した」といった具合に書き換えていくことができる。これは文字や音声での会話だけでなく、独演の形で行なわれる学校等の講義の場合でも適用することのできる見方である。「教師が“XはAである”と述べた」という文が「教師が問題解決のための着眼点を提示した」という文に置き換えていくことができる、というわけだ。


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