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2017|01|07|08|

2017-08-13 マンガ作文・テレビ作文における間接的言語行為のキモ

「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」というBさんの発話を、多くの人はおそらく「AさんがBさんという人物に恥をかかせた件に関して、怒ったBさんがAさんに対して恫喝してみせた」というふうに理解する。しかしもちろんこれは社会文化的な学習によるものであって、その学習を経ていないがしかしある程度の日本語力を習得している子供の場合、そうは受け取らないしそうは受け取れない。

まずこの発話の中に使われている「顔に泥を塗る」という慣用表現の理解がどうか、という問題がある。これは「相手に恥をかかせる」とか「相手の名誉を損なう」といった意味合いで通常使われる。しかし、社会文化的な学習途上にありながら、ある程度は日本語力を習得している子供の場合、「顔に泥を塗って遊んだの?」とか解釈したりするかもしれない。まずここが一点目。

この一点目がクリアされていないと、次の二点目のクリアは不可能であろう。それは「俺の顔に泥を塗ってくれてありがとうよ」という発話を、「恫喝」とか「怒りの表明」とか「脅迫」などと受け取る、という理解力である。というのは、社会文化的な学習途上にある子供はこの発話を「感謝」と受け取るかもしれないからだ。というか、結構な割合でそういう「子供」はたぶんいる。それに対して、日本語を正しく理解しているというのは、「この文は感謝を表明するような形をとってその実恫喝するというように、ストレートな形をとらない婉曲表現によって、自分の強い感情を相手に効果的に伝える、というタイプの言語行為なのだ」といったものになるだろう。

ところが、一点目がクリアされていないのに、二点目だけクリアする、ということも、ある意味では不可能ではないと言いうる。たとえばある種の子供は「Bさんの顔にAさんが泥をうっかり掛けて汚してしまったので、Bさんは怒ってAさんに対して恫喝した」というふうに理解するかも知れない。慣用句の理解の仕方は間違っているが、相手の言語行為を感謝ではなく恫喝であると理解している点では正しい。そういうパターンだ。あるいはほんとうに間違って相手の顔に泥をかけてしまった場合にも、同じような発話が相手から飛び出してくることが絶対無いとは言い切れない、ということも考慮した方が良い。

「顔に泥を塗る」にしろ「○○してくれてありがとうよ」も、相当に自動化した慣用表現ではある。がしかし、これらの表現が必ず絶対100%慣用表現として使われるとは限らない。本当に顔に泥を塗った場合や本当に感謝の意を伝えるときにも、こうした表現を絶対に使わないとは限らない。確かに、そう使ったら紛らわしいから、より慎重な表現を使うのが常識的な配慮ではあるが、常にそうしなければいけないとは限らない。そういうことも考慮した方が良い。

土屋俊氏の「間接的言語行為という偽問題」、『なぜ言語があるのか 土屋俊言語哲学コレクション4』(くろしお出版、2009)というやや難解な論文を読みながらなんとは無しに思ったことを、書いてみたのが以上である。言語行為の理解という問題は、慣用句や比喩やオノマトペの理解と無関係ではないという直感を筆者はもっている。


2017-08-09 テレビ作文を書きながら考えている事

マンガ作文は通常「要約力」育成の一環というか導入として行なわれる、ということになっている。しかし、説明的・論証的文章の要約や物語文のあらすじというものを抽出する「能力」というのは、いわば画力で言えば「デフォルメ」のような技能である。画力ではその段階の前に「デッサン」が先行することは言うまでもない。きちんとしたデッサン力があってこそのデフォルメ力であることは、赤塚御大も述べておられる。なので、そこから類推すればマンガ作文もまた、「デフォルメ」の前にまず「デッサン」なのである。少なくとも生徒に教える側にはその能力を要求したい。そういうわけで、まずは自分がマンガ作文の「デッサン」を、ただしせりふ部分周辺に限って行なっているわけだ。マンガ作文の指導者はおそらく「○○と言った、だけではダメです。間接話法でちゃんと書きなさい」などといって小学三・四年の子供を作文嫌いにさせているに相違ないので、まずその指導者が「○○と言った」の箇所をあますところなくすべて「デッサン」できることが求められるのだ。

ところでやってみるとわかるが、「○○と言った」を単に発語内行為によって記述していくだけだと、相当に不足感がある。たとえば「非難した」とか「訴求した」などのように記述することは可能であっても、そのせりふの○○という箇所があまり生かされていないように思えることがある。つまり「Aさんは○○と言った」という箇所を単に発語内行為によって記述するのみならず、可能なら「Aさんは××とは言わずに○○と言った」のような内容を多少なりとも反映するようにした方が、不足感は少ない。たとえば、同じ「非難」であっても「馬鹿野郎」と述べて非難するのと「どうして君はいつもそういうことするかなあ」といって非難するのとでは、与える記述は違えてみたいように感じてくる。つまり「Aさんは(どうして君はいつもそういうことするかなあ、と言う代わりに)馬鹿野郎と言った」というものを、発語内行為に書き換える、というふうにしたくなるわけだ。早い話、せりふが変われば同じ発語内行為であっても違うように書きたくなるわけだ。

そうすると、筆者の考える「教師用」マンガ作文・テレビ作文では、もともとの与えられた情報よりも、より詳しくくどい「敷衍」文を作成することになり、それは文法的には複文と呼ばれるタイプのものに、しばしばなる。つまり一文のなかに、述語が複数出現するような文になる。そしてそのなかにも確か四パターンくらいの複文の種類があったのであった。いずれにせよ、マンガ作文のせりふの箇所を生徒にやらせようという教師は、複文が使えるような生徒かどうかをきちんと見極める必要だけはある。

次のタイプの複文は構築するのはたぶん比較的易しい。

バッグシャドウは「はっはっは 何っ」と言った。↓

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、まさかそこまで敵が出来るとは思っていなかったバッグシャドウは驚きの声を上げた。

次のタイプの複文を構築するのは、技術というか文法的な観点がかなり必要になる。そして公教育がその観点を提供しえているとは到底思えない。

バッグシャドウは「レインボーラインめ 弾き飛ばしてくれるっ」と言った。↓

自分の操縦する列車によってレインボーラインを弾き飛ばしてやるという敵愾心をむき出しにした宣告を、バッグシャドウは誰にともなくわめきちらした。

ちなみにこの箇所は、筆者の作文例に相当の無理があると思える読者も多かろう。その原因の一つは、このせりふが、「登場人物が登場人物に聞かせる」ためのせりふではなく、「登場人物が視聴者に聞かせる」ためのせりふ、フィクションの発話の典型のような箇所だからである。それを、素知らぬ顔をしてリアルの会話のように扱って記述すると、こうなりうる、という一つの記述例を与えてみたわけだ。もちろん読者の違和感の多くは、「宣告をわめきちらす」という語の連接に主に向けられていると思う。文だけ抜き出して観察すれば確かにそうだ。もっと適切なコロケーションはいろいろあるはずだ。だが、この場面のもつ独特の「無理」「虚構性」を表現してみたかったので、あえて「宣告をわめきちらす」という言い方を採用してみたかったのである。場面を考慮したうえでの、まあ独自表現である。

なおこの箇所は「○○してくれる」という文語調の表現もあるので、その点も当然注意が必要になる。「かわいがってやるぜ」が「かわいがる」ときと「いたぶる」ときの両方に使えるがしかし言語学習の当初は「かわいがるの意味のかわいがるという発話」しか知らないのと同様、「○○してくれる」というのも「善意で貢献する」ときと「悪意で被害を与える」ときとに用いられるが、しかし言語学習の当初である子供は「善意で貢献する」ほうの用法しか知らない、わけである。なので、その「善意」のほうではないことを、子供が知らなければ伝える必要がある。

その複文の件とも関係するが、この手の作文に「主語-述語」という概念対は本当に役立たない。むしろ害になりうる。筆者は、ライティングに関しては酒井聡樹氏や本多勝一氏の路線を支持しており、それは三上文法を意識したものである。英文法に影響された多くの人が「主語」と呼ぶものは、原沢伊都夫氏によれば「主語格」とかいうもので、要するに述語が「必要」とする必須成分の一つに過ぎない。要するに他の格よりも主語格だけを特権的に重視する謂われはまったく無い。だが「主語格」だけを特権的に重視する人だとえてして次のような文章を書いてしまいがちである。その文は筆者の感覚では下のように書いたほうが良い。

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、バッグシャドウはまさかそこまで敵が出来るとは思っていなくて驚きの声を上げた。↓

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、まさかそこまで敵が出来るとは思っていなかったバッグシャドウは驚きの声を上げた。

レインボーラインから降りるとき特急二号が思い切り転んだ。特急三号が事前に足下に気をつけるように言っておいたにもかかわらずだったので、二号に少し呆れてみせた。↓

レインボーラインから降りるとき特急二号が思い切り転んだ。事前に足下に気をつけるように特急三号が言っておいたにもかかわらずだったので、三号は二号に少し呆れてみせた。

しかし酒井聡樹氏が『これからレポート・卒論を書く若者のために』というタイトルそれ自体は内容を裏切っている著書のなかで述べているように、文法的な修飾関係のみを考慮して語順を決めるのがいつでも正しいわけでは、まったく無い。文の「主題」を文頭に位置させるというルールのほうが、可読性を考慮した修飾関係の語順ルールより、優先する。あるいは少なくともそういう考え方もあって良い。なので、先に上に提示した書き直す前のほうの文の方が良いという場合も当然ありうる。要するにマンガ作文なりテレビ作文で「間接話法で書きましょう」「○○と言ったという書き方は止めましょう」などと生徒に教える教師であるならば、修飾関係を優先させた書き方と主題文頭型の書き方と両方繰出せるようでなくては話にならない。だからつまり、この作文を教える人が「主語-述語」などという概念対を保持したままでいることなどありえない、わけだ。「主語-述語」などは数ある概念対の一つに過ぎず、しかもそれは日本語にはおそらく不適当だ。


2017-08-07 烈車戦隊トッキュウジャー第01話 間接話法の一例

怪人バッグシャドウは「えええ泣き声だ いい闇を感じるぞう 子供たち もっと泣けえ はっはあ」と言った。

怪人バッグシャドウは自分の求める「良い闇」をたくさん手に入れるために、誘拐した子供たちにもっと泣けと嬉しそうに叫び、子供たちを怖がらせた。

バッグシャドウは「おっ 妙な鳴き声 んー 違う この状況で寝てるのかあ 誰だあ」と言った。

豚の鳴くような泣き声以外の音がバッグシャドウに聞こえ、またそれが寝息のように思えた。それによって、自分を恐れないで安眠している子供がいるとバッグシャドウは思ったので、怒ってその主を捜しに向かった。

バッグシャドウは「ほわっ 何で大人が乗っている おい 貴様 起きろ」と言った。

子供だけを誘拐したはずなのに、電車に青年が乗っているばかりかあまつさえいびきをかきながら眠りこけてすらいたので、バッグシャドウはまず驚いた。だがすぐに気を取り直し、怒りながら青年の胸倉を掴み、覚醒させようとした。

らいとは「いただあきまああああす」と言った。

その青年らいとは寝ぼけたままの状態で、怪人のことを食べ物だと思い込み、怪人の体に食いついた。

バッグシャドウは「あ あ あ痛て 俺は 食い物じゃないっ」と言った。

バッグシャドウは自分に寝ぼけて食いついてきたらいとに対して、自分は食べ物では無いとらいとに訴えた。さらに怒りに任せてらいとの身体を振り払い、そして座席に叩きつけて、らいとを覚醒させようとした。

らいとは「あれっ」と言った。

らいとは汽笛などの音に気づいて、突然起き上がり辺りを見回した。

バッグシャドウは「おおお あの列車 レインボーラインか」と言った。

バックシャドウもその音に気づき、車窓から覗き見た。それが敵であるレインボーラインであることに気づき、バックシャドウは驚きの声を上げた。

らいとは「なにっ」と言った。

らいとは好奇心に駆られて、バックシャドウの頭を押しのけつつ、車窓からレインボーラインを見ようとした。

バッグシャドウは「レインボーラインめ 弾き飛ばしてくれるっ」と言った。

自分の操縦する列車によってレインボーラインを弾き飛ばしてやるという敵愾心をむき出しにした宣告を、バッグシャドウは誰にともなくわめきちらした。

バッグシャドウは「撃てえ」と言った。

バッグシャドウは、列車を空中に舞い上がらせて、レインボーラインに向かって砲撃するような音声操作をした。

バッグシャドウは「はっはっは 何っ」と言った。

レインボーラインもまた汽笛とともに空中に舞い上がったため、まさかそこまで敵が出来るとは思っていなかったバッグシャドウは驚きの声を上げた。

バッグシャドウは「おのれえっ 乗ってるのは誰だいっ」と言った。

レインボーラインが砲撃の仕返しをしてきたばかりか、列車ごと体当たりまでしてきたので、バッグシャドウは列車を慌てて地上に着陸させて、まだ姿の見えぬ正体不明の「敵」に対して、彼は怒りの感情をあらわにして叫んだ。

らいとは「俺も見たい」と言った。

レインボーラインに対する好奇心を抑えきれないらいとは、自分の思いを口走りながらバッグシャドウの上にのしかかるような体勢になった。そのままレインボーラインの方に向かおうとして、二人とも地上に転落した。

バッグシャドウは「貴様は引っ込んでろお」と言った。

らいとのせいで地面に叩きつけられたバッグシャドウは、らいとに対する怒りの感情を口にしながら、らいとを殴り倒した。

特急三号は「足下気をつけてって言ったでしょ」と言った。

レインボーラインから降りるとき特急二号が思い切り転んだ。事前に足下に気をつけるように特急三号が言っておいたにもかかわらずだったので、三号は二号に少し呆れてみせた。

三号は「はいっ」と言った。

列車から降りるのが難しいと思ったので、五号が降りるとき既に降りていた三号は手を貸して、降りるタイミングが合うように五号に掛け声をかけた。


2017-08-05 作文能力の目標の一つは「自省力」だろう

「マンガ作文」という手法が作文教育の「導入」として位置づけられたことに、母語習得の難易度についての混乱した考えが現れている。とは言え、「母語習得の難易度」ということに関して、特に気の利いた見解を誰かがまとめて公表している、ということも無さそうだ。また難易度は単一の尺度ではもちろん測れない。つまり、言いたいことは、現時点ではこの「こどもてれび」に勝る見解は無いらしい、ということだ。だって「他人から聞いた記憶は無い」が、しかし重要だと思う事柄を筆者が書いているのだから、当然そういうことになる。

難易度ということに関しての筆者の思いつきを述べるとこうなる。「自分で言ったことを自分で実行できている」と見なしうる「書き手」を一種の到達すべきゴールと見なして、そこを目指して途中の困難を克服していくことを、母語での作文上達の過程であると捉えるのである。この難易度設定が良いと思う理由はこうだ。作文だの小論文だの論文だのエッセイだのといったものの「書き方」を「指南」する書を見ていると、だいたいにおいて「自分の主張したことを自分自身が達成できていない」ことがとても目立つ。たとえば「主張には理由を書け」という主張の理由を書かない本や、「論文はパラグラフライティングで書け」という主張をパラグラフライティングで書かない本というものがある。だとすれば、こういうタイプの本はいわば「難易度の高い」課題に成功していない、いわば「レベルの低い」本だと見なすことができる。それに比べて「自分の主張した内容に忠実に書けている」指南本というものは、それに比べて「難易度の高い」課題に成功している、と見なすことができるはずだ。

とは言え、もちろんこういうことは言える。「次に絶対ホームランを打つ」と予告して達成できないのと、「次に絶対アウトにならない」と予告して実際にアウトにならないのと、どっちが「偉い」のか、という問題である。「自分の言ったことを実行できている」という能力の獲得を目標にすると、今度は「自分の実行できることしか主張しない」ことを自慢する文章指南本や文章教育が現われる。その場合、難しい課題を提案して失敗するのと、易しい課題を提案して成功するのと、どっちが「偉い」のか、というふうにして、ここにもまた難易度の別の尺度が必要であることが示唆されている。

というわけで、文章作成の能力に関するごく一般的な「難易度」というものを構想すること自体がもちろん必要なのだが、ここ二十年くらいの教育の風景によって、むしろメタレベルから先に制限を加えておかないとならない事態になってしまったわけだ。つまり高邁かもしれないがちっとも自分自身が達成できていない教育目標を、自分にではなく生徒に押し付ける教育者・教育書が「素晴らしい」ものとして持ち上げられる、という時代を一回作ってしまったわけであり、それは否定してかかる必要があるわけだ。「この二十年は無駄だった」。なので、べたな意味での難易度を構想するよりも先に、「何であれ自分の主張したことが実行できている文章」を書くことが「難易度が高い」と言わざるを得ない状況になっているわけだ。

そうではない一般的な難易度という点に関して筆者には今、特に名案は無い。ただ、「読むこと」の難易度と「書くこと」の難易度とは混同しないべきだろう。多くの人が知っているように、「読むのがどうしようもなく難しい悪文」はむしろ(限定はつくが)書くのは易しいわけだ。現代文は放っておくと、その種の悪文、つまり「書く側にはむしろ易しい」文章を読めることを能力の高い状態だと捉え、それを獲得目標にしかねない。しかし、それは「書くこと」の能力向上のためにはあまりプラスではないだろう。「現代文の入試で読まされるおそれのある悪文」のようなものを書かないこと、つまり、読み手に「高い読解力」を要求しない文章を書けることが、「書く能力が高い」ということであり、つまりそういう文章ほど「書く側にとっては難易度が高い」ということは言えるはずだ。だがここでも、先のホームランとアウトの話は再燃する。高度な内容を易しく書こうとして失敗するのと、安直な内容を易しく書こうとして成功するのと、どっちが「偉い」のか問題である。ここでもまた「高度な内容」とか「安直な内容」といった尺度がもう一つ必要になることは不可避である。


2017-08-02

そもそもマンガ作文は、「あらすじ」を書くことが目指されており、「あらすじ」と「要約」の区別も特につけていなかった。つまり、「短くまとめる」ことが目指されていた。その点でいくと、筆者がここで書きつつある「テレビ作文」は「短くまとめる」ことなどまったく目指していないことに気づく。与えられた「せりふ」のこの簡潔さに比べて、よほどに冗長に解説を加えている感じである。これは、要約とは対極的に、敷衍とでも呼べるような内容だと言える。


2017-07-30 特急第01話メモ:テレビ作文を「指導」する側に必要そうな認識に関して

ひかりの「きずいたんじゃない」の発話はらいとに差し向けられたものではない、ということに「生徒」が気付くことは決定的に重要である。ひかりのこの発話は、他の3人つまり、とかっち・みお・かぐらに差し向けられており、かつ聞こえるようになされている。ただし、「きずいたんじゃない」はらいとにも聞こえていることをひかりはわかっており、らいとが応答しても構わないようにはなっている。

のちの発話からわかるように、ひかり・とかっち・みお・かぐらの4人は「あともう1人メンバーがいる」ということを事前に車掌に聞いて知っており、それがらいとであること、そのらいとこそが目の前で倒れて昏睡している人物であるということを、直感的には確信し合っている。らいとによって遮られたとかっちの発話「そお じつわぼくたちずっ」のあとには、「ずっと待っていたんだ」という発話が後続しただろうことが予感できるようにできている。

ひかりの「きずいたんじゃない」は他の3人に向けたものだというのは、まずは他の3人であれば「何に気づいた」のかを省略した発話であっても通じるはずだからである。ただし、らいとが「4人がずっと記憶の回復を待っていた」ということも含めて気付いたのなら、このひかりの発話に応答しても良いようになっている。ひかりの発話は、らいとととかっちの会話に割って入るように、あるいはらいとの発話にかぶせるようにしてなされている。なぜことさらにそうしたのか、その意図までわかるのなら、らいとが応答しても良いんだぜ、というそういう一種の賭けの要素を含んだ発話であったとも見なしうる。

このひかりの発話と、その少し前の「おっ きがついた」とで「きずいた」と「きがついた」とが本質的には「同じ単語」であることに気付くことも、一定年齢以下の生徒の場合重要である。そしてややこしいが、この「気づいた」対象は異なるのだ。「気づいた」と「気が付いた」で意味は同じなのだが、その気づいた対象が違う。そのことを反映させてみよう。

「ひかりは“おっ きがついた”と言った」というふうに書きうる箇所は、たとえば「らいとの意識が戻ったことにひかりは反応してつぶやいた」とでも作文できるだろう。一方、「ひかりは“きずいたんじゃない”と他のみんなに言った」というふうに書きうる箇所は、たとえば「らいとの記憶が戻ったらしいことをひかりは皆に示唆した。そしてそのことをらいとの発話を遮って行なうことでらいとの注意を自分の発話に向けさせた」とでも作文できるだろう。最初の気づいたのは「意識が戻った」であり、二番目の気づいたのは「記憶が戻った」であった、というわけだ。

ちけっとくんの発話に関してメモしておく。この第01話の場合、「ちけっとくんは誰誰に○○と言った」というのは、おおむね「ちけっと君は誰誰に憎まれ口をたたいた」とでも作文できる。ただそうすると、マンガ作文の指導者が往々にして「言った」ばかりを使うのを嫌うのと同じで、ちけっと君の場合いつも「憎まれ口をたたいた」ばかりになって、単調だし日本語として美しくないし、頭を使っていない、というふうに指摘することになる。なので、憎まれ口のあいだにも、差をつけた書き方をしないといけなくなる。

  1. らいと「とおぜん おれもはいってるんだよな」
  2. ちけっと「ふほんいながら」
  3. らいと「よっし」

らいとが車掌に「自分がトッキュウジャーのメンバーに入っている」ことを確認したら、車掌ではなくちけっとくんが応答したくだりである。この発話を「ちけっとくんは質問したらいとに憎まれ口をたたいた」とだけ作文するのは、いかにも何かが不足している。と言って、反対に「らいとは自分がメンバーに入っているかを確認した。入っているという返事がちけっとくんから得られて、らいとは喜んだ」というふうに書くのも、これはこれで、何かが不足している。

ここでの有意味な出来事はこうだ。まず質問した相手は車掌なのに答えたのはちけっとくんであること。次に、らいとはちけっとくんの発話内容に対しては反応しなかったということ。らいとの「返答」というのは、コストパフォーマンスが抜群に良いのが物語を通しての特徴である。即断即決の男なのだ。なので、そのことを重視したい。

「らいとは自分がメンバーに入っているかを、車掌に、何の疑いも無いかのようにして確認した。すると、入っているという返事が車掌からではなく、ちけっとくんのほうから、悪態をつきつつも得られた。態度の悪いちけっとくんから賛同が得られたのを聞いて、らいとは喜んでやる気を見せた」とでも書きうるかもしれない。ちけっとくんですら反対しなかった、他の誰が反対するだろうか、いや誰も反対しないだろう、というわけだ。

「悪人」どうしの会話はだいたいどの子供向け番組でもとても難しい。中学生レベルくらいかもしれない。ここではどの悪人も「皇帝のため」という目的では一致しているが「そのためにどうするか」という手段のレベルでは一致していない、ということをテレビ作文の「指導者」は「生徒」に伝えると良いだろう。物語が進むにつれてこれはたんなる意見の差ではなく忠臣と逆臣の違いであることが徐々にわかってくる。しかしこの第01話だけでわかる必要はむろん無い。

取り急ぎこの辺まで。


2017-07-23 烈車戦隊トッキュウジャー第01話

「テレビ作文」を始める前に書き取れると良い音声

せかいわ めにみえるものがすべてでわない

ゆめみるちから そおぞおするちから すなわち いまじねえしょんおもつものだけがみることができるせかいがある

いまじねえしょん それわ ふかのおおかのおにし せかいにひかりおともす むげんのちからである

しかし ひかりおきらうやみもまた そんざいする

いまじねえしょんおうしなったせかいわ やみにしずむ

ごじょおしゃ ありがとおございます このれっしゃわかみかくしけえゆ がきすてやまいきです

えええなきごえだ いいやみおかんじるぞお こどもたち もっとなけえ はっはあ

おっ みょおななきごえ んー ちがう このじょおきょおでねてるのかあ だれだあ

ほわっ なんでおとながのっている おい きさま おきろ

いただあきまああああす

あ あ あいて おれわ くいものじゃない

あのれっしゃ れいんぼおらいんか

なにっ

れいんぼおらいんめ はじきとばしてくれるっ

うてえ

はっはっは なにっ

おのれえっ のってるのわだれだいっ

おれもみたい

きさまわひっこんでろお

どあがひらきまああす とっきゅうじゃあがおりてきますのでええ どあふきんのおきゃくさまわあ てきとおに ごちゅういくださあい

うわあっ って

あしもときおつけてっていったでしょ

はいっ

きさまらがとっきゅうじゃあとかゆうやつか

そおみたい

いやみたいじゃなくってそおだから ついでにほそくせつめえさせてもらうと

とっきゅうじゃあだかどんこおじゃあだかしらないが われわれのじゃまおするなあっ くろおずうっ

やだ いっぱいでてきたあ

よし みんないくんだ

あたしたちもいくよ

ちょっとお

うちまああす

きりまああす

こらあっ ひきょおでしょ そおゆうの おとこらしくないよ やめなさいっていってるのに もおゆるさないからっ あんたも

こわいこわいこわい どおしよお うわあ こわ くない あたしわつよい あたしわつよい あたしわつよい すうぱあがあある こいっ うう どっかああん

りょおてでもって わきおしめて

うちまああす

よおおし なんだかわかんないけどわかった とにかく あいつたおせばいいんだな っし

だめ あぶないよ

すごおい

あのひと もしかして

いっくぞお とりゃ

ひっこんでろと いっただろおが

うわああああ

このきわきょおからおれたちのひみつきちだ

わあっ

おっ きがついた

だいじょおぶ

でんしゃのなかか

うん いまにげたかいじんおってるとこ

ってことわ もしかしておまえたちがさっきのとっきゅうじゃあってやつか

まあね

やっぱりか でっ あんたも

ちがいまあああすばかですかあんた

まあ わたくしわ しゃしょおです どおぞよろしく こちらわわたくしのかたうでのちけっとくん

それ しゃしょおさんが うごかしてるんでしょ

ちがいます

へんなこといわないでもらえます

いやあうごかしてるって

さっかくです それがしょおこに かあええるうのおううたあがあ きいこおええてえくうるうよお

えっ なあとかっち どおなってんの

さあ ぼくにもよく

おれ なんでなまえしってんだ

きずいたんじゃない

おまえたち もしかして

そお じつわぼくたちずっ

わかった なんかみおぼえあるとおもったんだ

いいか おまえたち このきわきょおからおれたちのひみつきちだ このぱすがないとのぼれないからな きちのたかさわいちおくきろめえとる てっぺんまでいくと うちゅうだからきおつけろ

こんなとこのぼったらあぶないでしょ

てっぺんがうちゅうなんてないし

うちゅうまでわそんなにないよ とゆうかどこおうちゅうとゆうかによって

おれがきめたところが うちゅうだ

とかっち みお ひかり かぐら

らあいとお

うおお なんだよおまえたち どおしたんだよ ぜんぜんわかんなかったけど でもやっぱそのままだな

なんかひさしぶりってかんじ ぜんぜんしない

もおひとりなかまがいるってきいてたからもしかしたらとおもってたけどやっぱりらいとだったんだね

おお で なんでおれたち ここにいるんだ

わたしたちもきずいたらここにいたの

それで とっきゅうじゃあとしてたたかうよおにって

さっきの かいじんとか

しゃどおおおおらいん かれらわせかいのかげにすむものです もくてきわ せかいおやみでつつむこと

ばっぐしゃどお あたらしいすてえしょんのかんせえわ まだですの

はあ すでに がきすてやまえきとなずけ あとわこどもたちおはこぶだけ こどもらのなきごえがよいやみとなることでしょお

おかあさまあ ぐりったわたいくつですう おそとにでたいい

おおお ぐりった もおすこしですからがまんなさい おかあさまがよいやみにあふれたすてえしょんをつくってあげますからね

のあふじん まだあそびのすてえしょんをつくるのわはやいですぞ いまひつよおなのわ しゃどおらいんのろせんをひろげること やみのこおてえおおむかえするために

ねろだんしゃく ぐりったわいずれわこおてえのおきさきとなるこですのよ うつくしさおたもつのもこおてえのためです

しゅばるつさま

とっきゅうじゃあか

そしてかれらにたいこおするそんざいが われわれれいんぼおらいんであり きみたちとっきゅうじゃあというわけです 

とおぜん おれもはいってるんだよな

ふほんいながら

よっし

でもなんでわたしたちがえらばれたんですか

それわ いまじねいしょん

はあ

おっと しゃどおのれっしゃにおいついたよおですね

よおし なんだかわかんないけどわかった とっきゅうじゃあ ひきうけたっ

ちょい

ちょっと

まって

よおおし おりゃあああ

あっとっと

らいとおお

みんな だいじょおぶか たすけにきたからもおだいじょおぶ

ひとりでのりこんでくるとわ ばかか

さっきとわちがう おれもとっきゅうじゃあになったからな あれ どおやってなるんだっけ

らいとくんわせっかちですねえ とっきゅうじゃあになるならこれおもっていかないと

ああああらいとってば もおお

やっぱりおばかですねえ はやくもここでだつらくけってえですよお

それわどおでしょお

あなたたちおとっきゅうじゃあにえらんだりゆう せつめえがめんどおなところもありますが かんたんなこともひとつ あなたたち とくにらいとくんはもっているんです やみおてらし しゃどおらいんにたいこおするちから 

だいじょおぶ らいとお

へえきへえき あんなやつにぜったいまけないから

きさま どこからそんなじしんが なにおこんきょに

みえるんだよ

ゆめみるちから

さいしょからずっと おれのここにわはっきりみえる

そおぞおするちから ふかのおおかのおにするちから

うっ おりゃあ おまえにかってるおれが

それが

おりゃあ

いまじねえしょおん

おれがきめたところが うちゅうだ

いまじねえしょん

そおだった らいとがゆうと なんでもほんとおになるきがした

どおだ おれのいったとおりだろ

きさまら ちょおしにのるな くろおずっ

らいと これおつかえばとっきゅうじゃあにへんしんできる ここからがほんばん うんこおかいしだ

おう

へんしいん いたしまあす はくせんのうちがわにさがっておまちください

うわっ あぶない さがってさがって

とっきゅうちぇんじ はっ

とっきゅうう いちごおお とっきゅうう いちごおお

とっきゅうう にごおお とっきゅうう にごおお

とっきゅうう さんごお とっきゅうう さんごお

とっきゅうう よんごお とっきゅうう よんごお

とっきゅうう ごごお とっきゅうう ごごお

しょおりのいまじねえしょん れっしゃせんたい とっきゅうじゃあ

しゅっぱあつ しんこおお

ほおむとりがあ

しんごおはんまあ

とんねるあっくす

てっきょおくろお

れえるすらっしゃあ

なあとかっち

おれもあおになってみていいか

ええっ

のりかえだよ

のりかえ

ほら おまえのこっちよこせ

へんしんかいじょいたしまあす

へんしんかいじょっていってるよ

おいそぎのかたわ おのりかえください

だいじょぶだいじょぶ

でっきるのかなこんなの

とっきゅういちごお れっど のりかえて ぶるうぶるう のりかえて れっど

うわこれもいいなあ よっし

へえ おもしろそおだねえ かぐら 

とっきゅうよんごお ぐりいん のりかえて ぴんく とっきゅうごごお ぴんく のりかえてぐりいん

このぶき おもい どおしよどおしよ わたしわつよい わたしわつよい わたしわつよい かいりきがあある うりゃああああ

こんどわ こっちだ よいしょ

おいそぎのかたわおのりかえください とっきゅういちごお ぶるう のりかえて ぴんく のりかえて ぶるう

こら みんなあそばないで

だいじょぶだいじょぶ

へ なにすんの え なに

もおこんなりゃなにいろだっていいわよ

ぼくもだれがだれだか

そおだぞお いいかげんにしろ いみがわからん

ふふん たおせればいいんだよ おれにわみえたおまえのしゅうちゃくえき

おれにわみえん

どおだ

かってにのりかえないでくださあい

ぽちっと

へんしんかいじょいたしまあす おのりかええ ください

そろそろお ばずうかで おわりにしてください ぶきおれんけつさせるんです

うらよっと

ひっさつわざわれいんぼおらっしゅ あなたたちのいまじねえしょんで へんげんじざいのこおげきができます

れんけつばずうか

よおし あいつわこどもいじめたからな これでいく

はっしゃいたしまあす

こなきじぞおれいんぼおらあっしゅ

しゅぱああつ しんこおおお

うわっ やっぱりいみがわからん

だよね

うわあああっ

はははははは なけなけなけえ

さっさと ×××××でれっしゃおよんでください

わかった

れっしゃがまいりまあす はくせんのうちがわに さがっておまちください

いたたたた

だめだよらいと ちゃんとかいさつとおらないと

ほらこっち

れっしゃのこんとろおるけんわ いちじてきにあなたたちにうつり あなたたちのいめえじどおりうごきます

きいわあどわ れっしゃがったいです

れっしゃがったい

しんにゅうかいし

さゆうかくにんよし

せつぞく

れんけつかくにんよし

ぽいんときりかえ

れんけつかんりょお

せえげん かいじょ

まいどお ごじょおしゃあ ありがとおございます とっきゅうおお かんせえいたしまあす

どあひらきまあす

じょおしゃかんりょお とっきゅうおお

これならいっきにきめられる

なけなけなけなけなけ

なけえ なけなけえ

へん ふるぱわああ

とっきゅうおおお ぱああんち

とっきゅうおお きいっく

ねえ いっきってゆうなら もおきめないとだめでしょ

ああ ふみきりけん れっしゃすらっしゅ

なけなけ まてまてえ

な け る ぜえ

やったあ

ふーん なるほどね これがとっきゅうじゃあか ますますきにいった

ええっ

あの わたしたちがとっきゅうじゃあにえらばれたりゆうがそれですか

ふは なんでもありません ちけっとくんのくちがすべったんです

いやっ もおいっかい いってくれ

まあ なんどいってもおなじですよ おまえたちわしんでるもどおぜん っていったんです


2017-01-26 マンガ作文の前に考慮が必要な事柄

国語教師の典型的な学力観の一つに、「与えられた表現を、与えられていない形に変換して表現することが国語の学力だ」というものがある。結論から言えばこれがマンガ作文を推奨できない主な理由になる。というのも、「与えられた表現を与えられていない形で表現する」ために必要な知識や考え方を教師は生徒に教えていないし、そもそも教師自身が知らないからだ。

マンガ作文そのものは、ある意味では容易であると言える一面がある。すなわち基本は全部「心情」で書けばいいからだ。「出来事1の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情→出来事2の発生→登場人物Aの心情→登場人物Bの心情」というふうに心情の連鎖に出来事の発生をからめて書けば、終わりである。連鎖は順接の接続詞を使って表現すれば良い。登場人物の心情の多くはマンガの中に文字の形で書かれてはいないから、「与えられた表現を与えられていない形に変換して表現すること」に該当する。なので「良くできました」となる。だが、国語教師の期待に応えない・応えられない子供というのが必ず出てくる。それを「裁判での理想的な証言者」タイプの子供とでも呼べるかもしれない。

「裁判での理想的な証言」というのは、ようするに自分の「解釈」をできるだけ排し、可能な限り事実に基づいて証言するタイプの発話である。これがマンガ作文の「理想」ととことん対立する。マンガ作文で必要なのは、いかにして「自分の解釈」を述べ「事実そのもの」を書かないか、という態度のほうだからだ。その典型が「セリフ」の扱いである。マンガ作文でいちばん嫌われるのは「Aさんは“X”と言った」というふうに、「言った」を使ってとにかくセリフを忠実に再現する書き方である。裁判の証言ならこの態度のほうが好ましい。だがマンガ作文への態度としては「最悪」と受け止められる。

なので、マンガ作文を教える側には「Aさんは“X”と言った」を「Aさんは○○した」という形に変換して、かつできるだけ「マンガ内事実」に密着した形で表現するための、ノウハウを持つ必要がある。そのための知的リソースの一つは明らかに言語行為論系・日常言語学派系の見識だが、それだけでは必要だが不十分である。有用な補助線の一つは「AさんはBさんに聞こえるように、Cさんに向けて“X”と言った」というふうに、誰に向けて言ったのか、誰に聞こえるように言ったのか、ということを明確化するようにしてみる作業だ。特にある種の障碍のある生徒だと、おそらくこの次元での理解が困難であることが予想できる。一方、言語行為論系からの知見(飯野勝巳氏)としては「AさんがCさんに向けて“X”と言った」ことが、Cさんにどの程度のことを強いているか、という観点がある。最低限、返答や聞こえたという合図だけは返さないといけないのか、あるいはそれ以上に発言に応対した行動を採らないといけないのか、それともそれらの必要が特に強くはないのか、といった観点である。

問題解決のための会話や独演というものもある。会話の場合であれば、問題を共有しながら、各自が提案をして「問題解決」や「秩序回復」のために何を行なったのか、どう役立ったのか、という観点からまとめるとやりやすいだろう。そうすれば「Aさんは“X”と言った」→「Aさんは新たな論点を皆に提供した」といった具合に書き換えていくことができる。これは文字や音声での会話だけでなく、独演の形で行なわれる学校等の講義の場合でも適用することのできる見方である。「教師が“XはAである”と述べた」という文が「教師が問題解決のための着眼点を提示した」という文に置き換えていくことができる、というわけだ。


2017-01-25 テレビ作文の前に考慮が必要な事柄

四コママンガ等を読んで、「何が描いてあったか」を作文させる課題であるマンガ作文という教育技法があり、それに類比的な形で「テレビ作文」というものを想定することができる。とは言え、その場合、マンガ作文よりもはるかに多くの事柄をあらかじめ考慮しておく必要がある。

文字には「活字」というものが存在するが、「音声」には「活声」「活音」というものは今のところ存在しない、と言って良いだろう。ただ、以下は仮に「活声」というものが存在するとしても成立するような議論をしておく。たとえば、駅やATMのアナウンスやアナウンサーの発声を「活字」に匹敵する「活声」として見なしたとしても、なお、成立するような議論をしておく。

子供の言語習得がいかにしてなされるのか、その際、音声言語と文字言語との関係はどうなっているのか、に関して、「専門家」の多くは真剣に考えてなど全然いないということがまず指摘できる。その結果としての現在の学校制度であり、教育制度である。雑駁に言えばこうだ。「専門家」は文字言語の運用は難しいが、他方で音声言語の運用は易しい、とこう捉えている。なぜ「専門家」がそう捉えているのかと言えば、欧米語に関してはそれが当てはまるからだ。しかし日本語は違う。だから「専門家」の想定は誤りだし、その結果としての学校制度も誤謬に基づいている。

このことは既発表の記事で筆者は指摘しておいた。たとえば、同音異義語の存在がある。このため、音声で聞き取る能力というものは、「文字で表記したときどうなっているか」の知識を前提するものとなっている。だから、日本語の習得は「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につける」という単純な順番をたどらない。「まず音声言語を身につけて、次に音声言語で教わることによって文字言語を身につけて、そのことによって次に、その文字言語を音声言語にただ置き換えたものの聞き取りを何とか身につける」という順番になっている。しかもその三番目の段階は「何とか」やりくりしているに過ぎず、絶対のゴールに辿りつくことは通常ありえない。何歳になろうが「相手の使用する同音異義語」が必ず正確に聞き取れます、などという人はいない。ありえない。

もちろん、「同音異義語」に加えて、「段落」「句読点」「諸括弧」「ハイフン」などといった文字表記に依存した要素のことを考慮に入れれば、仮に「活字」ならぬ「活声」が発明されても、その聞き取りが困難であることは明らかである。少々ふざけて句読点をわざと音声で逐一表現する人というのが昔いたと思うが、たとえば「もおにんぐむすめまる」「ありがとおございますまる」などと表現する人がいたと思うが、そういう手続きが「活声」にも必要になる。あるいはそれに匹敵するもう少し「まじめな」技法が必要になる。句読点や段落を表示する独特の音声を発明し普及させるということが、である。したがって、現段階では、それらのありとあらゆる要素の聞き取りは著しく困難である。「文字言語に比べて音声言語のほうがずっと情報量が豊かである」というクリシェを述べる人がたまにいるが、単なる馬鹿か欧米かぶれのどちらかである。

また、述語の位置が欧米語だと文のはじめのほうに位置するのに対して、日本語は文末に位置することから、重大な帰結が生じることも以前指摘した。それは「日本語は音声の場合、文が終わったことに気づくのは、次の文に突入してからになる」「つまり、日本語は音声の場合、前の文と今の文とを同時並行的に情報処理して聞かないと理解できないことがある」という話題である。そして、ここに「日本語は最後まで聞かないと、ということは次の文に突入しないと、その文が肯定文か否定文かどうかだったかすらわからない」という事情も加わる。もっともこれは、独演的に行われる講義やスピーチの場合であり、話者が次々交代する可能性の高い自由な会話場面ではまた、事情が違うかもしれない。しかしいずれにせよ、「小学校の授業」では、この事情が関与する可能性が高い、ということは言えるはずだろう。

いずれにせよ、日本の学校制度は音声言語の聞き取りは易しいが、文字言語の読み取りは難しい、という単純な言語観で設計されている。文字言語を身につけないと聞き取ることのできない音声言語の存在のことは、特に想定されていないことが多い。なので、学校での授業というものは、わりと安易に音声に依存して行なわれる。つまり、音声での聞き取り能力がすでに身に付いた子供を前提に行なわれる。ちなみに同じ言語観を、メディアの送り手もまた共有している疑いが強い。大人向けのバラエティには字幕が付く場合があるのに対し、子供向け番組のほとんどには字幕がいっさい付かない。音声を聞き取るほうが文字を読み取るよりも容易である、という考えに基づいているからだとしか思えない。しかしそれは間違っている。

さて以上は、「人の音声言語を一方的に聞き取り理解だけする」人間を想定した話になっていたし、その水準(授業など)の議論も必要なのだが、実際には音声言語の多くは「一方的に聞き取って理解だけする」ものではなく、「自分もまたそれに応じて呼応し返答し発信しなければならないもの」でもある。その際にきわめて多くの「理解し習得もしなければならない規範的事柄」が存在することには、言を要すまい。

ここまでは、マンガ作文であってもテレビ作文であっても、いずれにせよ理解しておかなければならない事柄である。四コママンガの構成要素の根幹に「会話」というものがあり、その「会話」を描写したり説明したりすることができることが、その作文の「能力」である以上、「会話」という社会的行為を高度に習得した子供でなければこの作文は可能ではない、それは明らかであるように思う。そしてマンガ作文を教えている国語教師や作文教師にそれに対応できる理論武装があるわけではないこともまた、筆者には明らかである。「マンガの会話というものは音声を描写したものだから、文字の本を読むより容易に理解できる」といった程度の幼稚な発想に依拠しているだけのものが、現在までのマンガ作文である。これ自体は、まあダメダメな事態であるが、今はそれに構っている暇はない。

それに加えてこうだ。マンガにせよテレビ等の映像にせよ、あるいは文字だけの小説でもそうだが、「フィクションの中の会話」というものが、「実際の」会話というものとはいくぶん異なるということが、まず考慮される必要がある。たとえばこうだ。「フィクションの中の会話」というものは、「登場人物」に伝えるためにだけ行なわれているわけではなく、読者や視聴者に伝えるためにも行なわれているし、そちらこそが主眼であるような「会話」もある、ということだ。なので、次のことが推察可能である。「実際の会話能力」が低くても、マンガやテレビの会話を理解できることがありうる、これである。つまり、それは「フィクションでの会話」の特徴を多くもち、実際には「読者や視聴者に伝える」ことに主眼があるような会話が一定程度存在する、ということである。マンガ作文の先に指摘した「難点」があまり顕在化しない理由の一つも、これであろう。「リアルの会話」を理解したり遂行する能力よりも、「フィクションの会話の特徴」を理解している子供のほうが、理解の程度が高いことがありうる、というわけだ。

もう一つ重要な点を指摘する。それは「フィクションの会話」では、先に述べたような音声言語の不自由さがまるでほとんど存在しないかのように進行するということだ。同音異義語の聞き取り問題も存在せず、まるで文字で筆談しているかのようにスムーズに進む。ときおり、「聞き取り問題」が発生することはあってもそれはストーリーの都合上生ずるものでありつまりネタである。だからそれは「リアルの会話」に常に潜伏しているような聞き取り問題とは無縁である。まとめれば、フィクションの会話というのは「字幕付き音声」で会話しているようなスムーズさを持つ、という点でリアルの会話とは異なる。ここからは先ほどとは反対の帰結が予想される。つまり「実際の会話能力」が低い者のなかには、テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも低い者がいることが起こり得、またその視聴者当人の側にもそのことが意識されやすくなる、これである。これは会話を文字で表現するマンガでは起こらないことであり、会話を音声で表現するテレビ・映像メディアならではの起こりうる点である。

さて、マンガよりもテレビのほうが一段と錯綜した構造のもとにある。つまり「マンガ作文」よりも「テレビ作文」のほうがより考慮を要するようになりやすい。たった今上で述べた「テレビの会話を理解する能力も登場人物よりも視聴者のほうが低いことが起こり得る」というのもそれだ。その他の例として、二つの全く異なった次元の点を、以下指摘する。

一つめ。マンガでは音や声を音や声として表現できず視覚情報に変換されたうえで表現されるが、テレビだと音や声を聴覚情報のまま音や声として表現される。この違いから次の点が帰結する。すなわち、マンガでは「音」は必要以上には表現されないようになり「声」が中心になるが、他方でテレビは「音」の表現で充満しておりその使用に遠慮が全く無いという点である。そのことで、視聴者の側にはテレビから聞こえる音に関して、ある独特の識別を必要とするようになる。すなわち「この音は“登場人物”に聞こえ得るか否か」の識別である。

マンガと比較しよう。まず「声」だ。マンガでは「登場人物に聞こえている声」と「登場人物に聞こえていない声」とを、漫符として区別する技術を持っている。たとえば吹き出しでは、「声」を表現する吹き出しと「内面」を表現する吹き出しとの区別というものは、確立されている。同様に、「ナレーション」を表現するような吹き出しも確立されている。つまり、マンガのなかの「声」のうち、どの「声」だと登場人物に聞こえていることが可能であり、どの「声」だと聞こえることが不可能なのかは、その識別は読者にはかなり自明である。もちろん自明とはいっても、文化的学習を経なければならないものではある。が同時に、学習によってその理解は容易に達成可能なものであるのだ。

次に「音」だ。マンガでは「音」は主に手書きの文字によって表現される。このとき「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえるはずのない音に似た何か」とは、漫符としては区別されない。つまり、オノマトペのうち、擬音語(聞こえる音)と擬態語(“聞こえる音”ではない何か)とは漫符として区別されているわけではない。この区別はむしろ言語レベルの区別だと言ったほうが良い。「キキキキー!」とか「ガオー」「ワンワン」だと「擬音語」であり、「シーン」とか「ゾワゾワ」「ガーン」だと「擬態語」である、というのはもはや言語理解と同等の理解である。つまり「聞こえ得る音」と「聞こえ得ない非音」とは「言語的」「単語的」に区別されている。これはより高度な学習の成果ではあるが、ともあれ文化的学習であり不可能な事柄ではない。

ところがマンガと同じことがテレビでの「音」(「音楽的な声」も同じ)については当てはまらない。つまりテレビで視聴者が聞こえる音のうち、「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえ得ない音」との区別をつけることができるような文化的学習というものを想定することは無理である。現在の科学技術だとほとんどどんな音でも作ることが可能だし、編集で付加したり除去することも可能だからだ。したがって、テレビで視聴者に聞こえる音のうち、登場人物にどの音が聞こえ得て、どの音だと聞こえ得ないのかの識別は、本質的には不可能であると言ってよい。しかもこれはフィクションに限らない。バラエティやクイズや報道番組であっても、この区別が視聴者に不可能である点は変わらない。ただ多くの番組ではこの区別が単にあまり必要でない、というだけのことでしかない。その必要性の無さということを、人は発達段階のどこかで自然に学習していく。しかしそれはまっさらな幼児には無理だ。なので、幼児やある種の認知傾向のある人々は、テレビを見ていても「登場人物に聞こえている音」と「登場人物に聞こえていない音」の区別があることに気づかず、視聴に理解困難があるかもしれないわけだ。

二つめ。テレビに関しては、マンガと比較してきわめて多くのものからの影響を蒙りやすい。つまり、作られた作品・流された映像や音声といったものが「単一の意志」のもとに統御されているとはとうてい言い難いということがある。マンガの場合でも、とりわけ長期の連載マンガの場合編集者が途中で変わったりするなどで、作風や設定が少しずつ変わってしまい一貫しないことはままある。しかしテレビの場合、それがもっと短い期間のなかですら一貫できないことがままあるのだ。とりわけ、そのことが現自民党政権のもとでかなり露骨に番組に反映されるようになった。特に2016年後半から目立つ。と言うか、番組が何か理解しがたいしかたで「路線変更」をした場合に、「背後の政治的圧力」を想定するのが当然のような時代になったわけだ。もちろん、それまでだってあった事態だろうが、より露骨になってきたわけだ。また、そこまで行かなくとも、番組制作側が「自分のやりたいこと」と引き換えに「交換条件」を呑まされている、という観もぬぐえなくなってきた、と、そう言える。言うなれば、長期連載マンガだと「5巻と10巻とでだいぶ設定が変わったね」というレベルの話なのだが、テレビだと「第5話と第10話とでだいぶ設定が変わったね」「あのときの伏線はどうなったのかね」「初期設定のままでもっと展開できるだろうにね」というレベルの話になりかねなくなったのだ。またそのためだと思うが、作り手も最初から緻密な設計図を描いて番組を作ることを断念して作っているかのような趣になってもきた。今これを書いている2017年7月という時期は、そのことがもうかなりはっきりしてきた時期であるのだ。そこから遡及して、過去の番組でもそういった面があっただろうと推測できるようになってもきたわけだ。

なので次のことが言える。すなわち「テレビ作文」を行なう場合、その番組を選ぶときには、必ず「第1話から最終回まで全話視聴して」からでないと、その良しあしが分からないものだ、ということを念頭に置くべきだ、これである。おそらくこの「介入に対する脆弱性」の根本要因の一つが、「視聴者は民放のテレビ番組は無料で視聴している」という点にあるだろう。「商品」なら購買者の意見というものが一定の強さをもちうるが、無料で視聴できるテレビ番組の場合、「視聴者の立場」はとことん弱いというわけだ。「商品」であるマンガとの違いがおそらくこういった形でテレビ番組にはあり、そのことがテレビ番組を「教材」として無邪気に採用することの障壁にもなりうるわけだ。(同様に、テレビ番組の内容に「社会学的問題」のようなものを「発見」することもまた困難である、やるからにはとことん調査し尽くした上でないと、ということも言えるわけだ)


2017-01-24 子供の語彙習得を俯瞰する

かつて書いた記事の転載です。

この文章は、文自体の理解についてまず分類の続編にあたるもので、「文+状況」の全体を考える文の理解について扱っております。

子供の語彙習得について概観を得ておくために、独自見解を中心にまとめておく。さて、語彙の習得は1か0かみたいな話ではなく、終わりのない過程であると言いうるところがある。理由の一つは、日本語自体が日々少しずつ変化しているということである。別の重要な理由としては、語彙を習得するときに「その言い方は誤り」「語のその理解は誤り」という見本があってそれを回避する、という仕方で学習することは少ないというものだ。つまり、誤りに関して「免疫」があまりつかないので、単に「こういう表現もできる」という習得段階にとどまることが多いわけだ。また別の理由(というか事情)として、「他人がその語彙を使っているのを理解できる」段階と「自分がその語彙を使えるようになる」段階との間にも違いがあるし、この二つは一挙には達成されず、前の段階を経て、その後いつの間に後の段階も達成しているという形になることが多い、だからそういうわけで語彙の習得自体はかなり長期にわたった複雑な過程であるだろう…というものがある。このように語彙の習得は考慮すべき事情がいろいろあり、一筋縄では行かない。なのでここでは、最初のまず「他人がその語彙を使っているのを理解できる」という獲得段階にとりわけ関心を払って考えてみる。換言すれば「こういう言い方もできる」ということを言い方自体とともに獲得する段階である。

例を挙げる。「ボールを掴む」「チャンスを掴む」「コツを掴む」という語句の各々において、「掴む」の内容は大きく異なる。とりわけ、これらの語句を獲得する段階の子供の側から見ると、大きく異なると云える。

まず「ボールを掴む」という語句を理解するためには、直示的教示を行なえば良い。つまり、ボールの実物を子供に提示し、それを養育者が実際に手でつかんでみせるということをすれば良い。あるいは、その映像やアニメや絵でも構わない。ここで直示的教示に伴う哲学的懐疑を提案することは、もちろん可能ではある。だが他に方法は無いし、たいていの場合なぜだかこの語彙獲得はうまくいくものなのだ。なお、ここでは「手で掴む」ことに無理のない大きさのボールのみを対象に想定することにする。で、このようなタイプの動作を表す動詞を筆者は「特定動作動詞」と呼んでいる。

なお補足しておくと、「ボールを掴む」という動作は目的をもった活動の過程であり、その続きがあることを示唆することが重要かも知れない。たとえば「ボールを投げる」ための過程として行なわれることを示唆する、ということである。

もう一つ補足しておく。人間のようなものの「動作」を表す「特定動作動詞」と同様の習得を子供がするものとして、物質・物体のようなものの「物理的運動・反応・状態」を表す「特定状態動詞」も想定できる。「物質としての人間」の状態もこちらに含めて良い。習得のしかたのパターンも「特定動作動詞」に準ずる。

次に「チャンスを掴む」という語句の獲得である。「チャンス」というのが物理的状態ではなく、言語的(あるいは規範的)な状態である以上、「チャンスを掴む」というのも物理的な動作の物理的なあり方によって規定されているわけではない。が、かと言って、物理的な身体動作として現出しないというわけでもない。「チャンスを掴む」という語句に対応する物理的身体動作や付随する物質の運動は多くの場合、個々の場面に応じて事後的になら指摘可能である。このようなタイプの動作を呼ぶ語彙を、筆者は「不特定動作動詞」と名づけ、語彙獲得に関わる話題の際に注意を促している。これはつまり、何らかの動作を伴うことはほぼ間違いないが、かと言って動作そのものには別の名前や呼び方があり、その動作の固有性によって呼ばれるわけではない、という、そういう動詞的表現を呼ぶわけだ。かと言って、その動作は動詞内容の単なる手段というわけでもない。つまり、動作が指す状態はあくまで動詞の意味する行為・活動の過程の一部であって、目的に対する手段という位置づけとは異なる。

さて、このような「不特定動作動詞」のような語彙は、直示的教示のような仕方で子供が学習することは決して多くはないだろう。というのも、たとえば「チャンス」が言語的・規範的な対象である以上、「チャンスを掴む」というのも、「これがチャンスを掴むという動作だよ」というふうに教えられるのではなく、むしろ「チャンスを掴もう!」という勧誘文や命令文で最初に学ぶことが多いのだ。要するに学習の場面は、物理や知覚の水準ではなく、文意や規範の水準で行なわれ、それは勧誘・依頼・命令だったりすることも多いわけだ。で、最初に見本を示されて学習する語というのではなく、最初からその語を含む文がブラックボックスとして提示され、「まずは対応せよ」を求められることが少なくないわけだ。あるいはまた、不特定動作動詞は、巧妙なデフォルメをほどこしたアニメやマンガやイラストあるいは文学作品によって学習されることもあるだろう。規範的・言語的な概念なので、記号化した物語のようなものからの方が、「現実の社会的行為」からよりも、的確に習得できる可能性があるのである。

なお、念のため付記しておくと、「チャンスを掴もう」と勧められた場合や「チャンスを掴むぞ」と宣言した場合に、「チャンスを掴む」ための手段としての行為のほうこそを行なうのはむろん適切である。というのも、そもそも実際にチャンスを掴むまでは、何がチャンスを掴む行為であり、何がそのための手段であったかは不確定であり、その区別は事後的なものだからである。

そして次に「コツを掴む」という語句の獲得である。「コツを掴む」という語句は「コツを掴んだ、と当人が信じている」と「第三者が判断してコツを掴んだことになっている」との言わば合成のような語句である。すなわち「当人が信じている」ことと「第三者が判断してそのようになっている」こととが、ともに一定程度満たされていることが必要であるだろう語句である。第三者視点の必要性に関しては先の「不特定動作動詞」と共通なので、この動詞的表現の固有の問題は前者の「当人が信じている」という条件のほうにある。こちらの当人条件が求められるタイプの動詞的表現を「心的動詞」とでも呼んでおく。「心的動詞」の内容は身体動作ではない。また「苦しむ」のように「第三者判断」を要さない心的動詞もある。ただ、とは言え、「信じている」もまた二義的である。一つは「“コツを掴んだ!”という心的印象が生起したことを知っている」という点を満たしている場合がある。もう一つは「“コツを掴んだ”という心的印象の記憶は特に無いが、“コツを掴んだ”状態に自身があるということを当人が信じている」という場合である。いずれにせよ、これらの条件を満たしているかは第三者からは推測はできても観察はできない。身体動作を指すわけではないからだ。したがって他人がこれらを満たしていることを子供が直示によって学習することにも大いに限界がある。と言うか、むしろ直示によっては学習できないし、観察もできないし推測をするしかない、ということをも含めて学習するのこそが正しい学習だと言いうるほどである。そこで他の学習する機会は二パターンあり、一つは自分が当人条件を満たしているときに、養育者が適切な示唆を与えることである。もう一つは、文学作品や体験談あるいは巧妙なマンガ・アニメから「他人の心の中・頭の中の描写」を与えられ、それを通じて学習することである。

これにあと「発文動詞」という筆者の造語した類型を加えておけば、だいたいの動詞的表現はこれまでのどれかに分類できる。「発文動詞」とは言語を(単なる音ではなく)言語として発する、という事態を指すことのできる動詞を指し、その多くは音声言語・文字言語を問わず使うことが可能なため、大まかには「不特定動作動詞」の下位類型としておくのが良いだろう。音声を発するのと文字を書いたり打ったりするのとでは動作がまったく異なるが、行為としては同じようなことをやっている、と言えるからだ。さて、ここでは「発文動詞」は、「発文専用動詞」「発文可能動詞」とを区別せずに扱っている。これらもまた筆者の独自概念だが、前者は言語を発するときに限って適用される動詞であり、後者は言語を発するときに適用してもよい動詞である。子供が語彙を習得する段階ではこの区別は全く不要だが、その後場合によっては必要になることも無いではない。たとえば「顧客の要望にこたえる」は「答える」なのか「応える」なのか表記を区別したほうが良いと考えるときに、この区別がレリバントになっていると言える。「答える」なら発文専用動詞であるが、「応える」ならば発文可能動詞であり、またむしろ不特定動作動詞であるからだ。あるいは「怒る」や「喜ぶ」は、子供が習得するときにはまずは発文動詞として習得するが、その後これらは単なる発文可能動詞だったり、あるいは心的動詞だったりすることが子供の社会化の発達につれてわかってくる。つまり、人は怒ったり喜んだりするとき言語を発するとはまったく限らない、ということを子供は学ぶわけだ。そして、しかし最初は言語を発する場合で学ぶことになることが多い、というわけだ。

「発文動詞」を子供がどのようにして習得するのか、などもちろん推察しかできない。ただ概して言えば、「発文可能動詞」は訓読みをもつものがいくぶん多いのに対して、「発文専用動詞」は「漢字熟語名詞+する」といったものが多い。そのため、子供は「発文可能動詞」を先に獲得し、かなり長じてからようやく「発文専用動詞」を、対応する漢字熟語名詞の獲得後に獲得することになるだろう。―とそのように推察できる。そもそもコミュニケーションを記述描写する語である発文動詞を、自身がコミュニケーションが十全にできないうちに「習得」などできるはずもなく、あるいはまた「初期の獲得」にしてもその「必要性」「緊急性」は比較的低い。ようするにコミュニケーションできるようになることのほうが子供の発達課題であり、それを記述描写できるようになることはそれより以降の課題だと言えるのである。ただしそれは子供の周囲の環境の養育者がきちんと「手加減」できる者である場合に限られる、とは言える。たとえば国語科や作文教室での「マンガ作文」を教える教師がその「きちんとした手加減」ができる定見があるとは全く限らない、とは言える。

そして、動作の不在を示す「無動作動詞」(造語)を以上に加えておくと、筆者の分類の意図がより伝わると思う。以下に大まかな関係図と例を挙げる。ただし現実には、一つの同じ動詞が複数の分類にまたがると言いうる点もあるし、動詞の用法が複数化していることもある。以下はあくまで概要である。要は、子供の語彙獲得が、まず「身体動作と物理状態」の観察から開始するのが容易なはずであり、ではその後にどのような語彙獲得が課題になるのかを示す、という観点からの分類なのである。あるいは、五味太郎氏の絵本『うごきのことば 言葉図鑑( 1)』(amazon)で扱われているのが、主に特定動作動詞と喜怒哀楽(→顔の表情という身体動作に現われている)に関する動詞が中心であり、その他がいくぶんこじつけであるのに対し、その先にある発達課題を提示した一案とも、この文は位置づけられる。

なお、「行く」と「帰る」の違い、「行く」と「来る」の違い、「もらう」と「あげる」の違いなどは、今回考慮に積極的に入れていない。ただしこの区分が自己と他者の区別という規範的なものである以上、これらの動詞は不特定動作動詞に入れるのが適切であるように思う。

  • 特定動作動詞(例:ボールを掴む、歩く、泳ぐ、座る、食べる、見つめる)
    • 特定状態動詞(例:燃える、落ちる、回る、伸びる、太る)
  • 不特定動作動詞(例・チャンスを掴む、調べる、練習する、処分する、まねする、運ぶ、殺す)
    • 無動作動詞(例:怠ける、無視する、沈黙する)
    • 発文可能動詞(例:挨拶する、拒否する、阻止する、対応する、なお、「怒る」「喜ぶ」「悲しむ」「笑う」「驚く」も当初は発文可能動詞として習得され、のちに心的動詞の用法とに分化する、つまり「行為として怒る」と「精神的に怒る」との二用法をもつ二義語となる)
    • 発文専用動詞(例:論じる、返事する、紹介する、ほめる、言及する)
  • 心的動詞(例:コツを掴む、賛成する、好む、想像する、考える、味わう、読む(、見える))

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